ぐ、と両手に力を込める。帯締めの端を左右に引っ張る。丸打ちの紐が締まり、薫の腰上で結び目を作った。帯締めは帯を固定する道具であるが、色合いを足すための便利な装飾でもある。淡黄の振袖と躑躅色の帯という柔らかい色の組み合わせを選んでしまった彼女は、迷った末全体を引き締める色の帯締めを着けることにした。
侍女を呼ぶ程のことではない。一人でも何とか帯に変な皺が寄らずに出来た。薫は一つ息を吐き、部屋を出るため襖を開ける。すると、四つ目垣の外を素早く動く存在が目に入った。

「佐助、物見はもう終わり?」
「薫!!」

葉擦れの音を鳴らしながら屋敷の庭に降り立った人物は、真田忍隊隊長猿飛佐助だった。迷うことなく薫の足元に着地した彼は片膝を地面に落としてから立ち上がる。先日肩を負傷した佐助だが今は問題なく日々の任務をこなしていた。
佐助の鳶色の毛先が眩い陽の光に透ける。月日の経過は非常に早く、気付けば日に日に太陽の輝きが増していた。澄んだ空に浮かぶ白い雲は初夏の訪れにもくもくと膨らんでいる。薫が恐る恐る佐助の名を呼んだ。微かに首を傾げた彼は姫君を見、ある一点に目を留める。

「私、佐助のこと信じてる」
「…薫」
「………あ、えっと、あの、アナみたいに他に仕える人がいるんじゃないかとかそういうことじゃなくて、」

口にした言葉の意味を咀嚼し、薫ははっとしたように弁明した。先日のことを思い出す。アナスタシアが反間であると露呈し、───そして伊佐那海が黄泉国の女神、イザナミノミコトだと聞かされた夜を。焦り顔の前で両手を振る彼女に、佐助はわかっているから大丈夫だと先を促す。

「佐助は、何があっても私達のことを守ってくれるって。
上田を任せられるって」
「、無論」
「………でもね」

佐助がアナスタシアにより怪我を負わされた時、薫は彼を強く引き留めた。六郎の解毒にあたるより、アナスタシアを追うより、己の治療を優先するように、と。それは決して佐助を忍として信頼していなかったからではない。仲間だと思っていたくのいちを前に怯んだ彼を不甲斐ないとは思わない。

「…心配だったから」
「…薫…」

再びアナスタシアを前にして躊躇しない自信はなかった。彼女は真田の勇士であり、薫もよく懐いていた。それに、アナスタシアの強さなら佐助も認めている。右腕が動かない状態で戦ったら今度こそ命を落としていたかもしれない。黙りこくる彼に薫はそれとね、と続けた。その言葉に佐助は目を瞠る。

「私、まだアナのこと信じてる」
「………」
「だってアナが敵だったら、あの時」

───とん、薫の掌が佐助の胸元を一突きした。以前城下で叩かれた時と同じ箇所。今は殺伐とした感情はなく、穏やかな悲しみがゆっくりと漂っている。彼女が何も言わなくとも佐助はその行動の意味を理解した。本当に敵なら、くのいちは佐助の心臓を貫いていたかもしれない。
「本当のところはわかんないけど」と薫が小さく笑む。アナスタシアはアナスタシアだと言う彼女に、佐助の心を深く沈めようとしていたものが取り払われる。顔の横を掠めた足の裏の感触が真綿に包まれる。情けないと悔やむ思いを、敵だと割り切れなかった甘さを、柔らかい香が覆い隠す。
風が吹く。薫の髪が温かな空気を含みふわりと靡いた。佐助は目を伏せて彼女の帯締めを見つめている。すっかり新緑に覆われた森の中を思わせる、花緑青色の帯締めを。



60



「───だからね、伊佐那海も伊佐那海だって信じてるし、…私は、皆を信じる」
「…薫…」

アナスタシアも伊佐那海も、佐助も、皆も。佐助の瞳に薫が映る。あの日以来塞ぎ込んでいる伊佐那海に対して、彼女はそれまでと変わらない態度で接していた。人の命を奪う女神だろうと伊佐那海が大切な友達であることには変わりない。佐助の胸の真中が熱を持ち始めた。薫の思いを前にして、彼は決意を新たにする。必ず、守る。彼女も、彼女の大事な者も。

「薫、共に、来る?」
「…え?」

咄嗟に口を開いていた。今日はこれから伊佐那海を気晴らしに城下へ連れていくのだが、その護衛として幸村から直々に選ばれた者が佐助と十蔵だった。眉を下げる彼から話を聞き、薫は瞬きを繰り返す。

「…何、その人選」
「…不明」

愚直な十蔵と初心な佐助が揃って伊佐那海の世話を焼く場面を薫は想像する。不器用な二人にあれやこれやと気を使わせてしまうのも彼女にとっては窮屈だろう、兄は何を考えている。これは同行した方がいいと薫は判断した。城下で伊佐那海が訪れる店ならわかっている。

「先に食事処でゆっくりしてて、すぐ追いかける」
「諾」

一言幸村に物申すため薫は踵を返した。長い髪が扇のように広がり、また背中で纏まる様が美しい。凛とした後姿。佐助は思わず彼女を呼び止めていた。大きな声に薫が驚いたように振り向く。鼓動が速い。いつもより言葉が上手く出てこない。足を止めた姫君は佐助が口を開くまでじっと待っている。震える指先を掌の内に抑え込み、彼は声を振り絞った。

「───薫、強い。
薫、伊佐那海、救える」
「…佐助」

信じていた者に裏切られることは何より辛いのに。途方もなく大きな存在を相手にしているのに。それでも信じると言い切る薫の眼差しが眩しい。あの夜何の迷いもなく皆を救おうとした薫の姿が佐助の網膜に焼き付いていた。石川組の襲撃を受けた時、守りたい存在が多過ぎて頭の中が縺れ、絡まり合った己には出来ないと佐助は思う。彼女は真っ直ぐで、優しく、そして強い。薫のその強さを、失わせたりしない。
佐助の短くも力強い言葉に彼女は虚をつかれたような表情になる。しかしそれも束の間、すぐに嬉しさの滲み出る笑顔を見せた。まるで今日の振袖と帯の色のような、柔らかな笑みだった。

( 20120912 )

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