その赤子は16年前に出雲大社にて拾われた。愛らしい娘を神主も巫女も可愛がったという。しかし、赤子が泣くとそれに呼応するように闇が蠢く奇妙な気配がした。そして神主は気付く。娘が泣いた時、黄泉国へと続く黄泉比良坂が騒ぐことに。普段石畳で塞がれているそこから闇が漏れていたことに。
───何を話している。伊佐那海と共に幸村の部屋へ赴こうとしていた薫は眉を顰める。二人は廊下に立ち尽くしていた。話し声がしたため中に入り難い。襖の前では弁丸が聞き耳を立てている。兄の静かな声が不安をかき立てる。

「この天地で黄泉比良坂から闇を呼べる者はただひとり───イザナミノミコトだ」

沈黙が満ちる。日本国土を作り出し神々を産んだ神、そして一日に千人の命を奪うことを宣言した殺戮の女神。訝しむ薫の耳に皆の驚く声が聞こえてくる。

「ま…まさか伊佐那海がそれだと言うのですか!?」
「、」

伊佐那海が、イザナミノミコト。気が遠くなりそうな幸村の話に薫は息を止めた。部屋の中からも懐疑的な意見が挙がるが、幸村は冷静にそれらを制する。信じる信じないは勝手だが、現に今まで何度かその力を使っている、と。先程の闇が爆発するような強大な力は、やはり伊佐那海が呼んだということか。幸村が確信を持って話していることは彼女にはすぐにわかった。しかし俄かに信じられる話ではない。妹は奇魂の守り巫女であると清海が叫ぶ。

「奇魂の本当の意味とは、くしをもって乱れをひとまとめにして和をなす───つまり伊佐那海が奇魂を守っているのではなく、奇魂が伊佐那海からこの世を守っておるのだ」
「………」

そして上田に集まった勇士、すなわち10の根源の力を継ぐ者が奇魂と共に闇を抑えている、と幸村は続けた。最早部屋の中は重々しい空気に包まれているだろう。
16年前、出雲大社に捨てられていた伊佐那海。神主から授かった、誰にも触れさせてはならないという奇魂。話を傍から聞いている薫も頭が着いて行かない。これが真実であれば、奇魂も伊佐那海も途方もない力を持っていることになる。アナスタシアを利用してこれらを狙おうとする勢力がいる理由が薫にもわかった気がした。今の上田には─もっと言うと彼女の隣には─強大過ぎる力が存在している。そこまで考えた薫の背筋に冷たいものが伝った。

「あーっっもうどいつもこいつもシケた顔しやがって!!」

しかしその時、突然鎌之介が足を踏み鳴らし叫んだ。勇士として伊佐那海を守ることが使命だなんて冗談じゃないという苛立った声。つい先刻の勘違いするなというぎらぎらした視線を薫は思い出す。彼は自分のために上田にいる。それは運命の大きな渦に呑まれ、溺れそうになっていた皆の胸に大きく響く言葉だった。皆は集められたのではない、己の意思で集まったのである。彼女にも頭では理解出来る。───理解出来るのだが。

「あ、」

部屋の外で話を聞いていた弁丸がやおら動き出した。襖を開け「お姉ちゃんを悪い神様なんかにしない」と無邪気に笑っている。その後ろに伊佐那海が静かに立っていたことに気付いた薫ははっとした。弁丸が威圧を放つ彼女の気配に肩を上下させる。慌てて彼らを追った薫と部屋の中にいる一同との目が合う。伊佐那海が肩に掛けたままだった若紫色の羽織が、音もなく滑り落ちた。



59



兄が私欲のために勇士を迎え入れたとは到底思えない。あの力を悪用する質ではない。幸村は力で日の本を支配することも、天下を獲ることも欲していない。薫は妹として兄のことをそう見ていた。しかし。

「…ほんとう、なのですか」

何故、真田なのか。何故ここに、勇士が集まってしまったのか。何故幸村は、"両の手の指の数の勇士"を望んだのか。
幸村はゆっくり煙管を吹かしている。伊佐那海はこの場を去り、才蔵が彼女を追っていた。幸村からふわりと立ち昇る煙に答えが込められていると薫は感じた。つまり、全て真実である、と。唇を引き結んだ彼女は部屋の中へ足を踏み入れる。足音を立てて兄の前へと歩み寄る。

「───どうしてですか!?」

友達として伊佐那海と接してきた薫は問わずにいられない。何故十人の守人を集め、事実を明かすようなことをしたのか。開けてはならない蓋をこじ開けるようなことをしてしまったのか。勇士が揃わなくたって伊佐那海はここで平穏に、幸せでいられたかもしれないのに。急激に召し抱える者を増やしたため不穏な動きがあると嗅ぎ付けられたかもしれないのに。こんなに悲しいことが起きるのならば、勇士など集まらない方がよかった。こんな事実、知りたくなかった。わからないことばかりだった頃は、そのことに不満を抱いていたのに。

「…どうして…っ」

しかし彼女は理解している。皆かけがえのない仲間であり、己を守ってくれていることを。薫自身勇士達に支えられていることを。皆との出会いを否定したくない。それをわかっているから、葛藤で胸の内が苦しくなる。こんな感情を言葉にしたら皆が傷付くから、何も言わずただ涙を流すことしか出来なくなる。
幸村と向き合い泣き崩れる薫に彼は手を伸ばした。小さな頭を引き寄せると妹は素直に身体を傾けてくる。

「泣くな…お前が泣いたら皆が悲しむ」
「………っ」

薫の周囲を思う気持ちを幸村は見抜いていた。彼女はいつも目の前のことに全力で向き合おうとする。しかし些細な風を受けると紫煙のように揺らいでしまう。深く傷付けば、心の火が立ち消えそうになる。だから、守らねばと思う。そしてそんな彼女をいつしか手放せなくなる。

「だからおぬしは煙管のようなのだ」

いつか言ったことを繰り返し幸村は小さく笑った。薫の零す涙が兄の夜着に染みを作る。肩に額を押し当てる彼女の頭を幸村は何度も撫でた。手触りのいいこの髪に触れるなど、一体いつぶりだろうか。煙草の香がする息を深く吐き出す。薫は知らない。幸村が奇魂のために十人の勇士を欲していたのと同時に、弱く優しい妹を守れる者を集めたいと望んでいたことは。薫は知らなくていい。兄の温かな腕の中で、彼女はまだ嗚咽を部屋に響かせている。

( 20120908 )

prev next

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -