雲が靡いた。月がこの場を不釣り合いな程に照らす。佐助の身体を覆う氷が月明かりにきらきらと反射していた。その奥では六郎が力無く倒れている。夜着に散る赤が鮮明に映し出された。信じられない光景。薫の呼吸が止まりそうになる。これがただの喧嘩な筈がない。誰がどのような思惑を持っているのかまで見えないが、兎に角明確なことは、

「───アナ、術を解いて」

佐助を凍り付かせようとしている氷山を壊すようにという硬い声。氷華のアナスタシアはゆっくりと薫に目を向けてから小さく息を吐いた。微かに呆れを含んだ表情に彼女はたじろぐ。

「薫、あなたは端から私の主でも何でもないわ」
「───!!」

「残念だけどそれは出来ないわね」。薄く笑みを浮かべながらの返答は無数の棘を持っていた。いばらに刺されたかのように薫の耳裏が熱を持つ。同時に一連のことがアナスタシアの所業によるものであり、彼女が真田を離反するつもりでいることを思い知らされた。アナスタシアは薫の背後に立つ伊佐那海に目を細める。彼女もまた眉を寄せ戸惑いを隠せずにいた。

「───心地いい場所なんてどこにもないわ、伊佐那海」

地面がざらりと音を立てる。アナスタシアが佐助の方を向く。その手が細剣の柄に掛かっていることに気付いた薫の瞳孔が大きく開いた。これから起こるだろう悲劇が容易に想像出来る。

「アナ………待っ、」
「仲間?
家族?
あなたが拠り所にしているもの、すべては欺瞞よ」
「………や…っ、アナ、やめて、」

脚ががくがくと震えだす。頬を涙が伝う。ここにはそれを望んでいる者は誰もいない。佐助が傷付くことも、アナスタシアの変心が決定的となることも、彼女を許せなくなることも。しかし風を切る鋭い音を立てアナスタシアは腕を翻した。

「…いや、………やめてアナ、お願いだから───」

薫の願いは届かない。佐助に深々と突き刺さるアナスタシアの剣。身体を貫く重い音の後、悲鳴が闇に木霊した。薫の視界が真暗になりかける。膝から力が抜けくず折れそうになる。刃を振り滴る血を払うアナスタシアからは何の感情も読み取れない。その時、後方で空気がゆらりと揺れる気配がした。背後の伊佐那海が泣いていると薫が気付いた瞬間、

「っ!!」

小さな音が聞こえた気がした。伊佐那海の簪に嵌め込まれた石に罅が入る。強大な力に耐えられないという奇魂の僅かな叫びを耳にして、薫の身体が急激に強張った。どくりと中心が蠢き、何か大きく邪悪なものに縛られそうになる。正体はわからないがおぞましく、呼応するようで反発している、不思議な感覚。何が起きている、と薫は後ろを振り向こうとした。すると───伊佐那海の慟哭と共に、彼女を中心とした闇が生まれた。暗黒が瞬く間に広がり辺りを包む。空色も、血の赤も、月の光も。何の色も、見えなくなった。



57



荒く乱れた呼吸が耳元で聞こえる。どのぐらいの間意識を失っていたのだろうか、気が付いた時には薫は地面の上に横になっていた。身体を何か重いものに押さえつけられている。ぱち、と目を開けた途端、飛び込んできた光景は月に眩く照らされた紅の髪だった。

「───勘違いすんじゃねーぞ、馬鹿女」
「…鎌之介!?」

刺青を施した目と視線がかち合う。薫の上にのしかかった鎌之介は苦々しそうに舌打ちした。彼女を包む華奢な腕。まさか鎌之介が救ってくれたのかという意外性と期待を含んだ眼差しになる薫を、「だから勘違いすんなっつってんだろ」とぎろりと睨む。

「俺はてめーに借りを返しただけだからな」
「…借り?」

京へ行く時に声を掛けてくれたこと。才蔵と離れて燻っていた感情を汲み取ってくれたこと。それだけではない。以前、鎖鎌を繰る動きを褒めてくれたことも、旋風に遊ぶ赤髪を綺麗と評したことも。他の誰かのように薫を守らねばならないなどと殊勝なことを考えたわけではない。まじまじと見つめてくる榛色を鎌之介は一瞥して立ち上がった。

「いいか、それだけだからな!!
俺は才蔵を探しに行く!!」

そう言い放った鎌之介は地を蹴り姿を晦ました。普段とまるで変わらない様子の彼にぽかんとしながらも、いつまでも寝そべってはいられないとばかりに薫は慌てて上体を起こし───息を呑む。そこはまるで世界の果てのようだった。木々が枯れ果て朽ちている。一瞬にして荒野に変貌した周囲に彼女の背筋が冷たくなった。鎌之介がいなかったらどうなっていたかわからない。瞬きを繰り返し辺りを見回すと、彼が言った通り才蔵の姿がどこにもなかった。そして、アナスタシアも。

「………っ」

伊佐那海が泣きじゃくる。佐助は未だ氷の中に閉じ込められていた。流れる血が緩やかなのは、身体が冷やされているからかもしれない。そして、彼を庇うように六郎が術を発していた。夜着の裾が縮れている。あちこちを刺された身体で防御を張るには負担が大き過ぎた。六郎が傷口から血を溢れさせもんどり打つ場面を薫はその目で見る。
皆が傷付いてしまった。薫を守ってくれていた存在であり、同時に、彼女が守りたいと思っている存在。彼らに、───今、手を伸ばさないでどうする。両足に力を入れて薫は立ち上がる。身体の震えが止まらない。忍ではないから戦えないし、着の身着のままで出て来たためやれることは限られている。それでも、どれだけ情けなくとも、今自分が出来ることをする。迷っている暇などなかった。両の掌で強引に涙を拭い、彼女は大きく息を吸い込んだ。

( 20120902 )

prev next

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -