目の前に影が落ちる。六郎ははっとして顔を上げた。酒の匂い。彼に寄りかかろうとしていた薫が離れていく。長い髪が肩から零れ落ちる。

「弱い癖に無理して飲みおって」

彼女を掬い上げた人物は兄の幸村だった。「よっこらせ」という小さな掛け声と共に二の腕と腰を掴む。膝の裏を支えるように横抱きにすれば、薫の身体は自然と彼に凭れかかった。杯代りの丼になみなみと注がれた酒と主君とを六郎は交互に見比べる。脱げそうで脱げない彼女の木履が踵にぶつかり、離れることを繰り返していた。慌てた様子の小姓に幸村は手首の動きだけで扇子を投げ付ける。

「若、」
「六郎、舞え!!」
「───は!?」

酒席に舞はつきものだと笑う幸村に船員達が歓声を上げた。六郎は驚きに目を剥く。しかしそこに会話を聞き付けた伊佐那海が直ぐ様割って入った。この場で唯一篠笛が吹ける薫が起きそうにないため、船員達の喝采や拍手に合わせて出鱈目に踊り出す。

「さすが伊佐那海、舞は絶品だのう!!」

難を逃れたと胸を撫で下ろした六郎は薫の様子を窺い見た。幸村に頬を擦り付けて眠りこけている。赤子をあやすように身体を左右に揺らす幸村のまなこが酷く優しく、六郎は思わず顔を逸らした。斬られた痕の残る扇子を指で弄ぶ。そんな彼に悟られないよう幸村は嘆息した。───守ることと閉じ込めることは違うし、籠の中に彼女を押し込めておく権利などない。ただ、この歳の離れた妹がいつまでも笑っていられる世界を望んでいた。己が薫の自由を奪い、上田という場所に縛っている、彼女はそう思っているかもしれない。上田城を抜け出て自分達を追って来た薫を見て以来、幸村は果たしてこの判断は正しいのだろうかと思いが揺らぐことがある。
力の入らない身体を預け目を閉じる薫を見つめていると、ふと背後に意味ありげな視線を感じた。微かに感じる煙草の香で甚八だとわかる。暫く吸っていなかったため一服が恋しい。随分と前に薫はまるで煙管のようだと例えたことを思い出しながら、幸村は肩越しに海賊をちらと見た。



54



目が覚めたら、琵琶湖を北上し終えていた。
薫が気が付いた時には船は岸に止まっていた。酒の所為で軽い頭痛がする。船員達に促され陸へ降り立つと、鎌之介が地面に跪き胃の中のものを吐き出していた。

「だ…大丈夫」
「…ぅっせ、」
「おい、薫こそもう平気なのかよ?」

低い声に苦笑する薫の頭上に才蔵が掌を宛がった。二日酔いなど微塵も感じさせない程けろりとしている。瞬きの後じっと仰ぎ見る瞳に彼はばつの悪い表情になった。甚八に助けられる前に見た、奥州の家臣とのやりとり。思い出させてしまったか。
気まずそうに髪を掻く才蔵に薫は眦を下げた。眉を顰めながら振り返る六郎、心配そうに顔を覗き込む伊佐那海。甚八は相変わらず煙草を吹かしている。着流し姿に戻った十蔵も、旅の始めから終わりまでを共にした鎌之介と清海、弁丸も。そして聞いているのか聞こえていないのかよくわからない表情の幸村も。

「───………ありがとう」

記憶の中の鋭い視線から、目の前にある沢山の優しい眼差しへと向き合う。竜の鳴き声は、喧騒に打ち消されつつある。皆がいるから、救われる。少しずつ。
甚八の仲間に船の上から見送られる。伊佐那海が薫の手を取った。才蔵達がやって来て、更に京への旅を経てまた上田に人が集まると彼女は実感する。「人の縁とは実に面白いものよ」と十蔵が笑う。賑やかな大所帯を引き連れるようにして、幸村が煙管に火を点けた。

「さーて、上田に帰るか!!」

勇士とは何だろう、と城への道すがら薫は考える。幸村が欲している十人の守人。何時の間にか一緒に歩いている甚八もその中に入っているのだろうか。しかし兄が何らかの目的により"集めている"ように見えて、勇士達が自らの意思で"集まって"いるようにも思える。鎌之介が─普段では考えられない位静かに着いて来ている─才蔵を追って上田へ来たように。薫は辺りを見回して黙考し、ゆっくり首を振った。兎も角皆かけがえのない仲間であり、彼らに支えられている、そのことは確かである。そして、これから帰り着く場所には会いたくて仕方がない人がいるということも。
隣では伊佐那海が船内でのことを話していた。薫が寝ている間に神楽舞を披露したと言い、

「折角なら薫の笛に合わせて踊りたかったなぁ」
「京では伊佐那海がいない時に演奏したし、なかなか揃う機会がないね」

以前交わした約束を引き合いに出し口を尖らせる。六郎に頼んでいた笛はまだ完成したという報告を聞いていない。才蔵が伊佐那海を振り返り尋ねた。

「そう言えばお前、茶屋で"薫が呼んでる"っつってなかったか?」

甚八が連れてきた黒豹のヴェロニカが薫に寄り添おうとする。艶やかな毛並に手を当てれば、伊佐那海が記憶を辿るようにううんと唸った。

「なんかねー…薫の笛がアタシのこと呼んでたの。」
「はあ?」
「それでアタシ、薫のとこに行かなきゃって」
「…?」

薫と才蔵、ヴェロニカが揃って首を捻った。「動物に好かれやすいのな」と甚八がくつくつ笑う横で二人は顔を見合わせる。一行とはぐれていたとはいえ助けを求めて呼んだつもりはないし、そもそも通りから随分と離れた茶屋の中にいて笛の音が聴こえるというのも不思議な話である。あの音を頼りに、しかも彼女の演奏だと即座に判断した上迷うことなく駆けていった伊佐那海。喉を鳴らし身体を押し付けてくる黒豹に圧倒されながら薫が出雲の巫女を横目で見ると、陽の光に反射して奇魂が鈍く光った。

( 20120820 )

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