「はーあ…とんだ拾いモンだ」

薫達を乗せた船の主は根津甚八と名乗った。褐色の肌、複雑に編まれた黒髪には羽根がぶら下がっている。身に付ける大振りの宝飾を煌めかせた甚八はこの妙な大所帯を訝しんでいるようでも面白がっているようでもある。どういうわけか乗船していた真田の武士、十蔵に─彼がいたから一行は助かったのだろう─口の利き方を改めるよう窘められた甚八は小さく舌打ちした。

「十蔵!!
この船の上では俺様が絶対だ!!
お前がいい女いるっつーからわざわざ助けてやったのに………んん?」

十蔵との間にどのようなやりとりが交わされたのか、幸村達を見回し不平を述べかけた甚八はぺたりと座り込んだ薫に目を留めた。長い髪の先が濡れて乱れている。水を吸った真紅の着物。そこから覗く白い腿にはまだ滴が付いていた。ほう、と彼は一つ息を吐き薫の前に歩み寄る。

「嬢ちゃん、どうした?
もう船酔いか?」
「、」

ふと降ってきた優しい声色に彼女はのろのろ顔を上げた。窮地を救ってくれた恩人の風貌に興味がある。視線が合わさってすぐに甚八の眼がくるりと動いた。榛色の瞳が光の加減によって甘やかな花の蜜を思わせる。すっと通る鼻筋に厚い唇、惜しむらくはそこに色がないことだろうか。胸元や脚に素早く目を走らせた彼はにやり笑う───悪くない。先程早速鎌之介を口説き、酒と女が好きだと公言した甚八らしい。十蔵の制止を聞かなかったことにして彼は手に持っていた煙草を口に咥えた。薫の前にしゃがみこみ両の手を広げようとする。

「寒いなら暖めてやろーか?」
「───この御方には」

しかしその無遠慮な接近は、突如目の前を横切った腕に遮られる。薫の傍らにいた六郎が甚八を冷たい視線で見上げていた。触れれば呑み込まれそうな、暗いようでぎらついた赤色。

「この御方には、触れることのないようお願い申し上げます」
「ああ?」

誰のお陰で助かったと思っている。甚八は片眉を上げて不快さを示した。しかしただならぬ六郎の雰囲気に口をつぐむしかない。「これじゃ助け損じゃねーか」と零した彼は、一行を船に乗せるに値するか見極めるためにとどういうわけか酒での勝負を持ち掛ける。嬉々として乗る幸村に呆れる才蔵、騒ぎ始める面々。心配気に付き添う六郎の隣で、薫は何事かと虚ろな目を瞬かせた。



53



湖の底に沈んでしまった心地でいた。陽の光など届かない、暗く寒々しい場所。膝を抱え丸くなり、何も考えたくなかった。景とは相容れぬ立場にあるということから、薫は少しでも目を逸らしたかった。奥州の者、しかも伊達政宗の近臣だったとは。事実を見抜くどころか一切の疑念も感じなかったことが、情けないようで恥ずかしくて、そしてただひたすらに悲しい。
常ならば薫の様子を放っておくことなど出来ない皆であるが、大量の酒を前にしてそれどころではない。頻りに彼女を気にしていた伊佐那海も回らない呂律で空腹を訴えている。そうして紡がれる景との話を聞かされることとなった人物は、薫の傍を離れずにいた六郎だった。

「………」
「馬鹿みたいでしょう」

静かに、杯を煽る。甚八の仲間がすかさず酒を注ぎ足す。彼らは薫の話に耳を傾けるでもなく、身内で盛り上がっていた。だからだろうか、彼女は実に雄弁に上田での記憶を語った。酒の効果もあり、ぽつぽつと、しかし確かな口調で。耳を塞ぎたくなるような酷い仕打ちを受けたわけでも、薫が真田の姫だと明かしたわけでもない。一人の人間としての邂逅。それが一層遣る瀬無さを際立たせる。守るという言葉がこれ程陳腐に思えたことはない。薫を守ることを六郎は幸村に許された筈なのに、隣に座る彼女の心はふわふわと彷徨い、消えてしまいそうである。

「…相手を責めないんですね」
「ん…だって、景が上田を出る切っ掛けをくれたから」

世界は須らく優しいと信じていた。上田の外を何も知らないのに彼と出会い、旅に出たからだと薫は小さく笑む。小さな酒杯を空にして熱い息を漏らす。六郎は口を開きかけ、しかしすぐに閉じた。貴女を取り巻く世界が優しいのは、貴女自身が優しいからだという言葉を辛うじて飲み込む。

「…恋うて、おられたのですか」

長い睫毛がゆっくりと上下に動く。城下で出会った男を。見事な笛を奏でる、影を帯びた眼差しを。自分達に害をなすかもしれない、片倉小十郎景綱を。何時の間にか杯に透明な液体が満ちている。
薫が是と言ってくれることを六郎は心の奥底で期待した。恋うているから、相手への怒りを一切口にせず、許す。そうだと認めてくれたらどんなにいいことか。もしもあの男が彼女の心を奪ったのであれば、何の躊躇いもなく恨みを抱ける。しかし答えが否だったとしたら、

「───違うよ」

さらさらと音が鳴る。薫が首を振ったことで乾いた髪が左右に揺れた。憧れだったという細い声。竜笛の音や見聞きして知っていること全て、彼女には眩しかった。奥州の者を好いてはいけないという思いからくる自制ではなく、本心から言っているのだと六郎は見抜く。

「私が好きなのは、………」
「………薫様?」

言葉が途切れる。俯いていた薫の上体ががくんと傾いた。甲板に転がる空の椀。すっかり頬を真赤に染めた彼女が、何やら小さく唸りながら寝息を立てていた。六郎は震える吐息を酒を飲むことで押し殺す。答えが否だったとしたら、───上田の仲間を憎むことなど、きっと出来ない。

( 20120817 )

prev next

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -