胸がざわざわと騒ぐ。木々の葉擦れの音が耐えず鳴っている。慣れ親しんだ森の穏やかさなど一切ない、侵入する者を拒絶する冷たい空気。薫は心が休まらずにいた。六郎が彼女の髪を撫でる。如何なる時も責務を全うしようとする小姓の「守る」という言葉に偽りはないだろうし、皆の力なら信じている。しかし、薫が守ってほしいと思う者はここにはいない。
どうして今頃気付いたのだろうか。薫にとって佐助がいかに大きな存在であるかということに。佐助が傍にいて守ってくれている、それが当たり前のようにある幸せだったことに。彼女の心のやわらかな部分に手を伸ばせる、特別にして唯一。思いが形となり薫を深く抉る。佐助がいないと強くなれない。離れていると実感しただけでこんなにも動揺し、全身が千切れそうな程痛くなる。花弁が風に舞い上がるように、はらはらとどこかへ飛んでいきそうになる。

「案ずるな、すぐに上田に帰れるぞ」

幸村が伊佐那海に打掛を差し出す。顔を青白くしていた彼女は漸く笑顔になった。清海が尚も伊佐那海を気遣い騒ぎ始めるが、六郎が直ぐ様静まるよう命じる。森の奥をにらまえる紅い瞳。木々が広がるだけのしんとした空間から突然苦無が飛び出し、薫達へと襲いかかった。



50



空気の層を幾重にも分断する苦無の雨。切っ先が真っ直ぐ向かってくる。薫の目の前から六郎が離れた。体内から刃を取り出して敵襲に相対する。波紋一つ浮かばない、冷たい水面を思わせる背中。

「───覇!!」

刃を一閃すると空気を震わせる衝撃が走った。苦無は全て弾き飛ばされる。刹那、葉陰から二人の敵が姿を現した。忍ならではの素早い動きで六郎の脇を難なくかわし、幸村に迫ろうとする。虚を突かれた彼はまなこを見開いた。守りが破られる。しかしそれを見るやいなや相手に立ちはだかる者がいた。

「ぬぅおおぉ!!」

鉄棍棒を振り下ろした清海により地面が轟く。地割れを起こす辺りに忍達も一旦退き間合を取った。口元を面で覆った者と、顔や腕に包帯を巻いた男───幸村を狙って武器を構える弐虎が上田の豊作祝を襲った刺客だと気付いた薫はあっと声を上げかける。彼も薫を見て頭に引っかかるものがあった。上田城で苦無を投げつけた真紅の反物。京ですれ違った楽人と同じ顔。弐虎の中で点と点が線で結ばれかけたその時、背後に黒い忍装束が翻った。才蔵の回し蹴りがこめかみを直撃する。

「逃げるぞ!!」
「薫様!!」
「う、うん…!!」

才蔵が煙幕を投げ敵を撹乱させる。薫は六郎に促されるままにその場を離れた。白煙で噎せかける中、すぐ傍で才蔵が伊佐那海の腕を引いている様が見える。彼の鋭い体術は豊作祝でのアナスタシアの記憶と重なる。あの時のように今なすべきことは何か考えなければならない、薫は口元を引き結び只管に走る。着物の裾がまとわりつくが立ち止まる余裕はない。そうして忍達が追ってきていないと判断した頃には、琵琶湖は目と鼻の先まで迫っていた。

「ダメだった…どの街道も完全に塞がれている」

才蔵の報告は芳しいものではなく、一行の顔も曇ったものになる。非常に周到で、大掛かりな包囲網。上田どころか近江に着けるかどうかもわからない。もしも捕まるようなことになれば重い沙汰が下されるだろう。薫は近くにいた六郎に問う。

「さっきの忍って…」
「…恐らく奥州の者でしょう」

走っていた時の余韻で呼吸が深い。脚はふわふわした感覚に包まれ、足指の間も痛い。未だ酸素が十分に行き届いていない頭で、この追捕使が徳川が伊達に命じたものだと薫は推測する。黙りこくる彼女を複雑な表情で見つめる六郎。この先、無事に逃げ切れる手立てはあるのだろうか。ゆったり腕組みする幸村に才蔵がぎりぎりと歯を擦り合わせた。しかし薫の兄はこんな場面においても事もなさげに言いのける。

「勇士がおればなんとかなろう」

琵琶の湖が陽をはね返し煌めいている。薫の心のさざめいていた部分が収まり始める。微笑む幸村が彼女には眩しい。何があっても揺るがない、こんな強さが欲しいと思う。上田城にて兄がいないと騒ぎになった時、皆がいると笑ったのは誰だったか。ここには頼りになる仲間がいる。幸村の元に集まった、戦う術を持つ者達が。皆を守る力のない薫でも、彼らを信じることなら出来る。今出来ることは、仲間に背中を押してもらいながら上田へ帰ることである。───また佐助に会うためにも。
勇士と呼ばれた者が顔を引き締める。才蔵は一人やれやれと頬を緩めた。「相変わらず人使いの荒ぇ」という声は呆れと優しさが混じっている。しかしそこに、

「いーや。
なんともなんねーよ」

薫が初めて耳にする響きが被さった。
白の髪が靡いている。長刀を肩に構え、ぎらついた瞳を幸村達に向ける者。追手が、と振り返った彼女の息が止まりそうになった。風の吹き始める瞬間に似た、時が止まる感覚が駆け抜ける。ひやりとした空気に肌が粟立つ。口の端を持ち上げて微かに笑う眼帯は、恐らく奥州の竜であり今自分達を追っている者───伊達政宗だろう。薫の視線は別のところにあった。追捕使の背後に黒の羽織袴が付き従っている。背中で括った黒髪の毛先が煽られていた。朝を迎えた辺りをじわりと闇夜に引き戻してしまいそうな雰囲気。深く鋭く、少しの憂いを湛えた眼光が彼女を射抜く。薫は身じろぎ一つ出来なくなる。男が躊躇いながら口を開いた。その声と名の呼び方で、最早疑う余地もなかった。世界は優しく、そして残酷である。

「………やはり貴女でしたか、青葉」
「───景…?」

( 20120722 )

prev next

「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -