童は望月六郎と名乗った。着古した上っ張りに大きな靴を履いた彼は侍になろうと火薬と仕掛けに関する腕を磨き、仕える強い大名を見定めるため峠で罠を仕掛けていたのだった。怒りを抑えられず拳骨を落とす才蔵を他所に、幸村は何事もなかったかのように呑気に笑っている。剰え雇えという売り込みを受け入れようとしていた。あれだけの目に遭っておいてと薫は驚く。しかしアナスタシアといい望月六郎といい力があれば取り立てる、それが兄の懐の大きさだった。隣に立つ六郎をちらと見る。

「…薫様、如何なさいましたか?」
「うん、なんかどんどん人が増えてくなって」

早々に勇士を揃える必要があるという幸村の言葉を六郎は思い出す。確かに城に身を置く者は才蔵と伊佐那海以降急速に増えていた。しかしこの童はどう説明すればよいのか。迷うように瞳を伏せた彼に、薫は「でも」と頬を緩めた。

「大勢だと楽しいね、賑やかで」
「…騒がしいだけではありませんか…?」

目の前では何時の間にか才蔵達が言い合いを始めていた。帰城の指示を一蹴した鎌之介を窘めたところ、ぎゃあぎゃあと争っては睨み合ういつもの光景となってしまった。よさんかお前らと幸村が呆れた声を上げる。

「六郎、止めろ!!」
「御意!!」
「ハーイ!!」

その時、幸村の命に二つの返事が重なった。首の巻物を緩める海野六郎と、爆弾を取り出した望月六郎。二人は顔を見合わせた。同じ名前では何かと不便である。先に童が屈託なく笑い、頭の後ろで手を組んだ。

「オイラ、なんて呼ばれてもかまわないよ!!
だいたい『六郎』なんて名前ダッサイし!!」

小姓のまなこが僅かに細まる。彼よりも長い年月を"六郎"と呼ばれて育ってきた彼の心が小さくささくれ立つ。童の何てことない言に過ぎない、と黙ったままでいると、薫が不意にその場にしゃがみ込んだ。頭の天辺に手を添える。

「こーら。
ださいなんて言ったらこのお兄ちゃんに失礼でしょう?」
「…薫様」

優しい薫の眼差し。彼女を幸村の妹と見抜いた童は神妙な顔で頷き、「すみません」と掠れた声を発する。小姓は驚いたように瞬きした。上の空で首を横に振る。薫のほそりとした指が柔らかそうな髪を撫でる。その様子を見ていた幸村が低く唸り頻りに何か考えていたようだが、

「弁丸!!」

とやおら叫び扇子の先で童を指した。薫と六郎が揃って目を丸くする。

「今からお前を弁丸と呼ぶ!!
よいか!?」



45



身体の内から震えが起こる。急激に感情が湧き起こる様子は、血管を強く裂いた時の飛沫に似ている。六郎の声には強い動揺と怒気が篭っていた。

「───なにを…なにを考えておられます!?」
「怒るな六郎」

怒るなと言われても無理な話である。弁丸とは幸村が元服前に名乗っていた幼名だった。それをあっさり与えるとは、と六郎は唇をわななかせる。表情を輝かせる童───弁丸に微笑みかける幸村。六郎は妹の薫からも止めてもらいたいと彼女の名を呼ぶ。しかし彼の思いに反して、薫は苦笑を浮かべ立ち上がった。

「兄上が構わないならいいんじゃない?」
「薫様!!」
「私、兄上が弁丸って呼ばれてた頃には生まれてなかったし。
それに兄上のことだから弁丸じゃなかったらとんでもない名前を付けそうだし」
「おいこら薫…」

溜息を洩らす妹を幸村がじとりと睨む。六郎は歯痒いとばかりに唇を噛んだ。幸村を生涯の主とし、如何なる時も付き従うと心に定めた彼だからこそ、認める訳にはいかないこともある。しかし真田の若殿は六郎の忠言を素直に聞く質ではない。瞳を揺らす彼の傍にて、薫が口角を引き締め兄を仰ぎ見た。恐らく先の才蔵と鎌之介の言い争いは「弁丸と薫を連れて上田へ戻れ」という言葉を発端としている。そんな命には屈しない。

「茶会に参加するつもりはありません。
それに上田の城下を歩くことは良くて、京の町は駄目という理由は何かあるんです?」
「………」
「今ここで四人で帰るより、才蔵や六郎が一緒の方が心強くはありませんか?
兄上も私が目の届く場所にいる方が安心でしょう?」

固い意思を秘めた榛色。彼女には籠の柵は最早見えていなかった。そのことが幸村の心の表面を微かにざわつかせる。鎌之介と清海が一緒では大人しく上田に帰るどころか何度でも引き返してきそうだし、何より薫に末代まで恨まれては敵わない。大きく溜息を吐き、掌を扇子の親骨でぱんと打つ。幸村は大抵のことならば妹を甘やかす。

「仕方がないのう。」
「!!」

惚けたように大きく口を開ける薫。頬が朝焼けの色に染まっていく。敢えて目線を外した幸村は、鎌之介達にも面倒だから着いてこいと呼び掛けた。才蔵が余計面倒だとばかりに目を吊り上げる。伊佐那海が薫に駆け寄った。喜びを分かち合うように握り締められた手に漸く彼女ははにかむ。そして薫はふと振り返り、輪の外にいる彼を呼んだ。───六郎。

( 20120630 )

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