きんと冷えた日はいつもよりも音がよく伝わると、三好清海入道は思う。気温の低さに空気の粒子が常に震えているからだろうか。幸村から充てがわれた部屋にて彼は座禅を組んでいた。伊佐那海が心配でならない。彼女はたった一人の出雲の生き残りであり、かけがえのない妹である。戦忍にうつつを抜かすなど許してたまるものか。それに年頃のおなごが男三人に囲まれて京へと旅するなど考えただけで頭が沸き立ちそうになる。ざわつく心を鎮め、無事の帰還を願いつつ、「伊佐那海に手を出したらどうなるかわかっているだろうな」という呪詛を込め、彼は鼻から大きく息を吐く。まなこを閉じているため更に過敏になる聴覚。その耳がどこからか聞こえるひたひたという足音を拾った。夜を横切る者の存在に清海はむうと唸り目を開ける。同時に足音が部屋の前で止まり、早口で名を呼ぶ声がした。

「…清海、いる?」
「うむ、おるが───」

清海は二度驚いた。立ち上がり襖を薄く開けると榛色の瞳がこちらを見上げている。訪問者はこの城を保有する真田の娘、薫だった。予想だにしない人物の訪れに彼はぽかんとする。大した関わりのない相手なだけに何かあったのかと不安に駆られ、部屋へ招き入れようと再び襖に手を掛けた。しかし彼女の格好を見た次の瞬間、清海は唖然とした。

「…な、にを」
「いいから着いて来て、早く」

声が掠れる。狼狽える彼に強い視線を向け、薫はくるりと背を向けた。高い位置で一つに括った長い髪が揺れる。有無を言わせぬ調子に清海も部屋を出るしかない。快活だが節度を持っており、素直で思いやりのある姫君。そう言えば幸村と薫は血の繋がった兄妹関係であり、出雲を出た己と伊佐那海より共に過ごしてきた時間は長い。幸村は妹を一人城に残して心配ではないのかと彼は思う。それともあの兄は"これ"を見越していたのか。「二人とも兄上の言った通り大人しくしていると思わなかった」と薫が呟く。角を曲がったところにある一室の前で立ち止まれば中からじゃらりと金属音がした。部屋の主の在室を知った彼女は躊躇なく襖を開ける。

「鎌之介、今いい?」
「、んだよ馬鹿女」

清海同様城での居残りを命じられていた由利鎌之介は薫の急な来訪に目を吊り上げた。手入れの最中だった鎖鎌を構え、しかしすぐにいつもと違う様子に気付き瞬きを繰り返す。彼女の背後に巨体の僧侶の姿を認めた鎌之介が「は?」と怪訝そうな声を発した。薫と鎌之介に自分。妙な取り合わせであると清海自身も確かに思う。

「鎌之介、旅の仕度は終わってる?」
「つかお前もう由利だ何だって呼ばねーのか………あ?」

薫の背中に立つ清海から彼女の表情は見えない。紺青の襟元から項が覗いている。二人を呼んだ理由は未だ語られてはいないが彼には疑う余地のない確信があった。いともあっさり清海を召し抱えると決めた、真田幸村の妹。きょとんとした様子の鎌之介に薫が口角を持ち上げる。そうして告げられた言葉に彼はやはりなと胸を高ぶらせた。準備ならとうに出来ている。にやり、彼女が笑う音が清海にも聞こえた気がした。

「行くよ、───京に」



42



遡ること二日前、上田城に設けられた庭園の奥にある茶室には薫とアナスタシアの姿があった。小さな庵は長らく使っておらず、埃っぽく湿った臭いがする。全ての窓とにじり口までも開け放ち、薫は茶室の掃除に取り掛かった。塵を履き格子を拭き、鉄製の風炉を磨く。アナスタシアも色褪せた掛軸を新しいものと取り替えるなどして手伝いに及んでいた。しかし、「折角だから花でも活けようか」という薫の提案に森の中から辛夷を手折って来たはいいが芳しい香りが室内に満ちることとなってしまう。

「…あら、うっかりしてたわ」
「ちょっとぐらい大丈夫。
ここに茶聖はいないから」

枝に連なる香りの強い花を眺めながら薫が笑った。蹲で清めた手を拭き、茶を点てる道具を丁寧に並べ始める。いつのものかわからない空気は外へと逃がした。にじり口と窓を閉め、付かず離れずの位置に潜んでいた真田忍隊を下がらせる。手入れの済んだ茶室にて最初に茶を貰う、悪い気はしないとアナスタシアは壁に凭れて脚を伸ばした。作法を咎める茶聖はここにはいない。しかし、彼の者が提唱した狭い茶室は密談に相応しい場所でもある。

「ごめんね、アナしか頼める人がいなくて」

茶釜の中身が先程から音を立てている。薫は湯を掬い茶碗に注いだ。必要なもの以外何も置かれていない侘びの空間は、集中力と同時に緊張感をかき立てる。しかし微かに弧を描く彼女の口元がこの部屋に穏やかさをもたらしていた。真剣な瞳はひとつひとつの作法を確かめているのか、それともこれから口にする内容を噛み締めているのか。しゃかしゃかという茶筅の音だけが静謐な部屋に響く。アナスタシアはその様子をぼんやり眺めていた。何もない。薫の思惑以外、何も。

「…お待たせ」
「ありがとう、薫」

小さく息を吐いた後、薫はアナスタシアの傍に茶碗を差し出した。表面の泡は細かく、粒が揃っている。次いで彼女は平皿に干菓子を広げた。花や鈴、葉などに象られた淡い色の甘味達。これに釣られたのかと思うとアナスタシアは自分自身に呆れてしまう。彼女はまず皿に手を伸ばした。薫がアナスタシアに声を掛けた理由など、ただ茶に付き合わせるためなわけがないとはじめからわかっている。間違いなく姫君は自らに助力を仰ぎ何かをしようとしている。この非公式の茶事において、薫に主導権を握られてはならない。

「…それで?
薫に頼られるのは光栄だけど何を企んでいるのかしら?」

アナスタシアの口の中で菓子が砕ける。固すぎもせずすぐに崩れることもないこの茶請けは、わざわざ調達してきたものだった。薫が姿勢を正してアナスタシアを真っ直ぐ見据える。静かに揺れる炎のような視線。手を握られなくとも視線だけで氷の表面がじわりと溶けそうになる。何時の間に彼女は前に進んでいたのだろうか。アナスタシアは居た堪れなさそうに茶碗を手に取った。視線を逸らせば掛軸の傍にある辛夷が目に入る。花言葉は「信頼」、そして「友情」。

「───京に行きたいの、アナ。
協力してくれる?」

アナスタシアは小さく笑みを零した。商人や武士と狭い茶室で密談を重ね、世の動きに深く関わることになったため太閤から切腹を命じられたと言われる茶聖───千利休をふと思い出す。茶碗を傾けると、葉を濃縮したような抹茶に混じり花の香がふわと匂い立った。

( 20120620 )

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