幸村達が京へと発った翌日、上田城では伽羅色の振袖が忙しなく動いていた。こじんまりした屋敷の上奉公している女中も少ないもののたった四人が不在なだけで随分広々として見える。薫が足早に廊下の角を曲がれば床がきゅっと音を立てた。物心ついた時から城には常に幸村がいて、毎日毎時嫌という程顔を合わせていた。今でこそ付かず離れずの距離であるが、事ある毎に構ってくる彼を疎ましく思った頃もある。それでも薫にとって兄は城を、この地を統べる絶対的な存在だった。幸村のいない今、彼女は自分が上田ではない別の場所にいると錯覚しそうになる───だからと言って寂しさや落ち着かなさに浸っている暇はない。手早く草履を履き庭へ。清海は伊佐那海の旅の無事を祈るため滝に打たれに行っている。鎌之介は自室で昼寝だろう。下ろした髪を揺らし薫が四方に目を凝らすと、屋根の上に目的の忍を漸く見つけることが出来た。

「───アナ、今時間いい?」
「あら、どうしたの薫?」

呼び掛けられたアナスタシアは意外そうな表情で地上へと降り立った。物見の途中か休憩中か、錣屋根には佐助も腰を下ろしている。姫君を視界に認めた若草色の肩が大きく動いた。風を受け翻る袂に、薫はやっと見つけたと顔を綻ばせる。

「呼んでくれれば行ったのに」
「ううん、いいの」

アナスタシアの聴覚ならば城内のどこにいても薫の声一つで駆け付けられるだろう。しかしそれは真田の忍隊も同じである。彼女を呼んだ目的は公のものにしなければならない。薫は「茶を点てたいから付き合ってほしい」と申し出た。

「茶室をずっと使っていなかったから、空気の入れ替えと私が作法を忘れないために。
駄目かな?」

ちらちらと二人を盗み見る佐助。薫の瞳はアナスタシアだけを捉えており、彼は目に入っていないようだった。眼下では彼女があからさまに顔を顰めている。茶道となると嫌いな正座をすることになるし、何より苦味のある抹茶が口に合わない。渋る仕草に薫が首を傾げた。

「私が手順を確認したいだけだから楽にしてて大丈夫。
…アナの好きな砂糖菓子もあるから、ね?」
「………」

アナスタシアの心にある天秤がかくんと一方に傾いた。彼女はくのいちであり、そしておなごである。甘味は嫌いではない。しかしそこに釣られたわけではないと照れ隠しに鼻を鳴らし、アナスタシアはゆっくり薫に近付いた。

「………しょうがないわね。」
「ありがとう!!」

無邪気に喜ぶ薫と満更でもなさそうなアナスタシアが連れ立って茶室へと向かう。佐助は屋根の上にて一人頭を抱えた。少しの安堵とそれを多分に上回る悲しさ。こっちを見てほしいようで、もしも目を向けられたら平静ではいられない。白梅に彩られた後姿が遠ざかる。自分から接触出来ず、距離を縮められない内気な唇がくぐもった呻き声を漏らした。接吻の感触は未だ残っている。



41



更にその次の日、鎌之介の苛つきが募り城内のあちこちで突風が吹き荒れる中で薫を訪ねる者がいた。町に店を構える呉服屋である。時折城にやって来る主人は新しい反物を携えていた。一室に広げられたそれらに彼女は歓声を上げる。この日の姫君の護衛役である佐助は部屋の外にてやりとりを見張っていた。

「この菫色の生地、可愛い」
「こちらの紅赤色もお勧めですよ、京で流行っていますからねえ」

薫が気になっているのは菫地に花弁が舞う可憐なものだが、呉服屋の主人は紅赤の中に大振りの芍薬が咲く織物を推したいらしい。小花柄の振袖は多く持っているとは言え華やかな布地は少しばかり派手な気もする。佐助に背を向け暫し悩む薫。路考茶色の毛先が畳を擽る。顎に手を当てううんと唸った彼女は、大きく息を吐き屋敷の外を振り返った。目が合う。佐助の心臓がどきりと跳ねた。

「…どっちがいいと思う」
「!?」

徐に問われた言葉に佐助は動転した。何故ここで自分に判断を仰ぐ。全身が針で刺されたかのように粟立つ。薫のじとりとした瞳には慌てふためく彼の姿が映っていた。微かに色付く彼女の耳朶。はっきりした色も楚々とした柄も着こなす薫に一方を選ぶことは難しい。はくはく口を動かしながら佐助は人差し指を宙に浮かべた。

「………そ、の…っ」
「こっち?
…菫色?」

何となく関節の曲がった指の先を薫が確かめる。菫色の中に暖色系の花が流れるように散る模様。ぶんぶんと首を縦に振る佐助を見てから薫は反物に視線を戻した。再度ふたつの生地を見比べること数分、指先を真っ直ぐ立て「こっちで」と決断した方は彼が示したものと同じだった。

「………っ」

呉服屋の主人が気のいい顔で布地をしまう。振袖が仕立て上がるまでに一月はかかるらしい。城を辞そうとする主人を見送るため彼女も立ち上がる。しかし唐突にその身体はぐるりと佐助の方を向いた。彼の背中が仰け反りそうになる。先程より肌の赤みを帯びた部分が広がっていた。

「あの、…え…と、………ありがとう」
「、」

か細い声も束の間、薫はすぐにふいと顔を逸らし呉服屋と共に部屋を出た。帯や重ねはどうするかという会話が聞こえてくる。佐助はその場にへたり込んでしまいそうになった。守人として二人を追わなくてはならないことはわかっている。自らの口から薫に謝らないといけない───城下でのやりとりのことも、彼のみが知る口吸いという秘事のことも。しかし佐助の全身は裂け目の入った紙風船のように力がなくなっていく。今の彼女の礼は、ひとまず香の件はもう気に病んでいないということだろうか。部屋に残る親しんだ森の匂い。薫の真意が読めない彼は乱れた呼吸を整えるよう深く息を吐く。身体の芯がひりついて痛みを訴えていた。そして、彼女の気持ちを図りかねる佐助は薫が突拍子もない行動に出るなど思いもしなかったのだった。

( 20120610 )

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