「薫も来れればよかったのに」。残念そうな伊佐那海にアナスタシアは瞬きを数回繰り返した。信州上田城から歩くこと少し、森を抜けた場所にある温泉はこの地を治める真田幸村の秘湯である。彼の誘いにより勇士達は連れ立ってここへやって来た。群雲に時折月が隠れ、まだ寒さに身を竦ませる頃。そこに幸村の妹、薫の姿はない。
具合が良くないと彼女は言った。石川組が城を襲った日、寒空の下に一晩倒れていたのだから無理もない。青褐の打掛により更に白く見える顔には陰りが見え、強引に誘うわけにもいかなかった。とは言え薫が今回同行しなかったのは、顔を合わせづらい人物がいるからだとアナスタシアは思っている。「そうねえ」と返しながら彼女はビスチェの紐を解く。胸から腹を覆う装束ははらりと剥がすと得も言われぬ開放感があった。

「温泉って苦手なのよね。
長く入ると具合悪くなっちゃうから」
「、アナにも苦手なものあるんだ」
「そりゃああるわよ」

露わになった胸元を睨むように見つめる伊佐那海に首を傾げるアナスタシア。彼女の身体は女として恵まれ過ぎている。「他にもあるの、苦手」と問われ蒼い瞳が空を泳いだ。

「………手、かしら」
「手?」

例えば、布団の中で指先を探り当てた手。屋根の上にて渾身の力で腕にしがみつく手。まるで幼子のような小ささと温かさに、己の内にある氷を溶かされそうになる。───この決意は失ってはならない。薫に、溶かされるわけにはいかない。アナスタシアは眉尻を下げて笑ってみせた。

「ほら、アナタのお兄さんの手、ぬるっとしてそうでしょ」
「…アナ…」

呆れた目で本当のお兄ちゃんじゃないもんと頬を軽く膨らませる伊佐那海。アナスタシアはふっと息を吐き出湯へと急いだ。女湯は、二人きりで使うには些か広い。



39



共に来た筈の鼬がいない。佐助は雨春を探して湯治場の周りを歩き回っていた。夜風が吹く度に鳶色の髪がさらりと揺れる。毛先の間に感じる空気は冷たかったが、忍装束で覆われた肌はまだ暖かく、しっとりしていた。雨春は佐助にも把握出来ないような森の細道を辿ったのだろうか。しかし川に程近い道に出て周囲を見渡していると、

「なにしてる!?」

鎌之介が鼬をわしわしとかき回していた。下ろした髪に赤い鼻先、本当に川浴を済ませたようである。目を血走らせながら両腕を動かす彼に佐助はぎょっとした。何とかして雨春を救出したいが、どうしてこうなったのかまるでわからない。あ、う、と吃り迷う内にふわふわした手触りに落ち着きを取り戻したのか、鎌之介は草叢に腰を落ち着けた。雨春が苦しそうに四本の足をばたつかせる。こうなっては傍に立ち、返してもらえるまで待つしかない。

「…んだったんだろ………」

ぼそりと呟かれた声はまるで抜け出せない袋小路に入ってしまい悩んでいるようなものだった。鎌之介らしくない。無防備な腹の毛に顔を埋める。くふくふと鳴く鼬に佐助は慌てふためいた。

「仲間だなんて思っちゃいねえ…俺にとって才蔵はそんなんじゃねえ。
馴れ合うのはゴメンだ、求め合うなら血と戦いだ、その心の昂ぶりならよく知っている───とてつもねえ快感だ」

墨を撒いたような夜空に雲が浮かんでいた。月と二人の間を遮っては離れる、気紛れな雲。迷路の出口を探して彷徨う鎌之介を佐助がじっと見る。

「でも先刻のアレは、ソレと違う昂ぶり───」

突然彼は宙に向かい悪態をつき、ばふりと背中から地面に倒れ込んだ。雨春は未だ腕の中にいる。何があったのか佐助には皆目見当がつかないが、持て余す感情があることは確かだった。昂ぶり。先日、薫に口付けたことを思い返すと彼の頬が再び火照りそうになる。彼女のまなこが開いていたら間違いなくあんなことは出来なかった。意識がぼやけているのをいいことに内に宿る欲望を向けてしまった───刃を翻すように、頭で考える前に身体が動いていたのだった。
上田の平穏を守り、幸村の命を守ることが佐助の任である。しかし、薫を守りたい思いはそれとは少しばかり違う。彼女の命。細くて、しかししっかりと動きをなす四肢。繊細な指先。凛とした瞳。長い髪が風に揺れる光景。己に正直に生きる心。綺麗に弧を描く唇にふわりと染まる頬から成る笑顔。そして、佐助、と自らを呼ぶ柔らかな声も。大切で、失いたくなくて、守りたいと思う。細胞ひとつひとつに至るまで、全て。それらが健やかに在ることが嬉しくて、もしも壊れようものならば正気でいられる自信がない。薫を思うと佐助の胸が昂ぶる。彼女を前にして始めから終いまで冷静でいられたことなどあっただろうか。こんなに、頭がどうかする程にかけがえのない存在は一人だけである。何故薫はこんなにも自分を掻き乱し、翻弄させるのだろうか。

「…つーかなんでいんのお前」
「………雨春…我の…」

漸く佐助に気付いた鎌之介が頭上を見て声を掛けた。思いに耽っていた彼とは対照的にあっけらかんとした口調に戻っている。驚きながらも兎も角雨春を返してもらうよう請えば、鎌之介が鼬を片手で掴み上げた。抵抗を諦めた長い胴体がにょろりと垂れ下がる。

「ああコレ!?
気持ちいいよな!!
殺して毛皮作ってもいい?」

何時の間にか鎌之介は袋小路を突破することを放棄していたらしい。相も変わらず出口を探し続けている佐助は、声の限りに否と叫んだ。

( 20120604 )

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