初めて触れた唇は、何物にも例えられなかった。
色も温度も、柔らかさも。寧ろそんなことを確かめている余裕など佐助にはこれっぽっちもなかったのだった。
薫に覆い被さった佐助は彼女と唇を合わせた。含んでいた薬湯を少しずつ口内に流し入れる。解毒の効能がある液体を口移しで与えるしか、彼には薫を救う方法が思い浮かばなかった。喉の動きを確認しながら何度も何度も唇を落とす。他のことを考える暇はない。接吻していると自覚をしたら、彼が平常心でいられるわけがなかった。

「…っ、薫…」

苦味のある薬を椀に一杯、用量分を与えたところで佐助はぐいと自らの口元を手の甲で拭った。薫は解毒薬を全て嚥下した。しかしそれは肉体が無意識の内に行える運動であり、未だまなこが開く様子はない。指先に触れると驚く程冷たかった。佐助は焦り彼女の腕を布団の中にしまう。部屋という部屋を回りかき集めたそれらは、微かに埃の臭いがする。

「………」

まるで、冬眠しているみたいだった。森で多くの動物を見ている佐助は思う。気温が低くなると生命を維持するために巣に籠り、活動を止める栗鼠や熊。彼等は栄養分を蓄えてから冬眠に入っており、薫が薬湯だけで命を繋ぎ止められるわけがない。春が来たことをどうやって伝えればいいのだろうか。掌をひたりと頬に当てる。普段桃のように色付くそこは、今は青白い。すると彼の体温を感じたのか薫が僅かに身を捩った。

「!!」

薫、と名を呼ぶ佐助の声が上擦る。一挙一動も見逃さないようにと腰を浮かせ彼女を覗き込む。眉間がひくりと動き、唇からは細く息が漏れる。目覚めの気配に佐助の胸が高鳴った。しかし一瞬のようで永遠にも感じられた間の後、薫がゆるりと紡いだ言葉は思いも寄らないものだった。

「───、景………?」

佐助の瞬きが止まった。掠れた声が告げる、知らない名前。閉じた瞼が小さく痙攣している。どう反応すればいいかわからず彼は視線をうろつかせた。こめかみに汗が浮かぶのは部屋が暑いからだろうか。兎に角戻りかけている薫の意識を手繰り寄せようと佐助は布団を軽く揺すろうとする。その時、彼は手に一輪の花を握ったままだということに気が付いた。
萎れた竜胆。花は首を擡げている。山野に咲く、楚々とした紫色。花言葉は───「悲しむあなたに寄り添う」。そこまで考えたところで、佐助は視界がぐるりと裏返るような感覚に陥った。
盗人の他に存在する者と薫が紡いだ名が線で結ばれる。捧げられた竜胆は、彼女の傍を望んでいることを示している。ただの顔見知りとは違う、特別な思い。薫と侵入者は互いを知っている。しかしその相手が佐助には見当もつかない。やるせないようで、焦り、動揺し、正体の知れない相手への怒りが噴き上げる。分厚い雲が佐助の全身を包む。灰色に淀み、温度は下がり、ひやりとした風が吹く。遂にそこから、激しい音を立てて雷が落ちた。
衝動的に佐助は薫に唇を寄せていた。今度は口腔に注ぎ入れるものなどない。ただ唇を塞ぎ、彼女の中に住まう誰かの存在を吸い取ってしまいたいと自らのそれを押し当てる。薫が自分のものではなくても、他の者が彼女の心にいることをそう簡単には受け入れられなかった。佐助の奥の奥で燻っていた感情が溢れ、爆発する。手の中の竜胆がくしゃりと潰れていた。

「………は、…っ」

重ねた唇を離せば、佐助の息は上がっていた。心の臓がけたたましく鳴っている。輪郭に汗が一筋流れた。俯く彼の耳に、布団と長い髪とが擦れる音が聞こえてきた。

「………さ…すけ………」
「っ!!」

薫の長い睫毛が揺れる。名前を囁かれた佐助は勢い良く顔を上げた。薄く開いた瞼の奥にある榛色は暗いが、確かに彼を捉えている。佐助が二の句を告げずにいると、彼女はどこか嬉しそうに微笑み、再びすう、と眠りへと引き込まれていった。

「…薫?」

浅く緩やかだった先程とは違い、薫の胸元は大きく上下していた。毒の効果ではない睡眠。頬には色が戻っている。しかし佐助は安堵と同時にじわじわと我に返る。弧を描く唇が、濡れていた。今、自分は彼女に何をした?

「───!!」

がたん、大きな音を立てて佐助が布団から後退った。全身が発火したように熱くなり、先に落ちた雷の名残なのか目の前に火花が散る。酸素を求めて無意識のうちにはくはくと彼の口が動いた。その口が、薫の花唇を吸ったのだった。色や温度、柔らかさといった接吻の記憶が蘇り、佐助の頭の中が真っ白になった。
相変わらずすやすやと寝入っている薫の傍で大風が吹き荒れる。春の訪れは嵐と共にやって来た。佐助自身にも受け止めきれない激情は、その名を明らかにしないまま思わぬ形で露わになったのだった。



37



男は城下を足早に歩いていた。人通りの少ない早朝、寒さが身体に堪えるが頭はたたら吹きの最中の鉄のように滾っている。刺客達の変わり果てた姿を思い起こすと眉間には深い皺が刻まれた。
今回のことを主に報告したら、恐らく上田の領主は相手として不足ないと喜ぶだろう。啖呵を切った癖にとからかわれるかもしれない。ただ、いくら主でも全ては話せない。この地で起きたこと、出会った者全ては───

「…おや、この前の笛のお方」
「、」

ある店の前を通り過ぎようとした時、ちょうど戸から顔を出した者に声を掛けられた。立ち止まってからややあってここは上田に来た初日に蕎麦を食べた店だと気付く。あの時、向かいには餡蜜を頬張るおなごがいた。暖簾を軒先に掛けた食事処の店主が気さくな笑みで男に問う。

「こんな早くにどうしたんです?」
「………そろそろ、上田を発とうかと」

任が失敗したことにより故郷へと戻らなければならない。納得したように頷く店主に、男は「青葉によろしく」と言おうとして───しかしすぐに思い留まる。自分は彼女の愛する上田を潰そうとした者であるし、偽名を述べても通じないだろう。尋ねれば正体を明かしてくれるかもしれないが、少しでもいい記憶を残すべきでない。眩しい笑顔を振り切るよう足早に店の前を去ろうとする男を店主が「ああお客さん」と呼び止めた。

「?」
「長旅、お気を付けて。」

町が目覚め始める。草履が砂利を擦る音や食事処同様暖簾を出す店が現れる。昨夜の出来事を何も知らない人々。建物の奥へと姿を消した店主に男は軽く頭を下げた。もしも彼女がとらわれている籠を取り払っていれば、二人で伊勢へでも行けたのだろうか。地面には影が短く伸びていた。
世界は優しい。それが男を、ほんの少しだけ追い詰める。

( 20120522 )

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