───やはり、あの者は情けの心など持ち合わせていなかった。
男は口元を覆う黒布をひと撫でした。まともに空気を吸えない環境の上、静寂に支配されたここは酷く息苦しい。張り詰めているようで弛緩した空間。殆どの者が眠りに就く上田城、敷地の隅に彼は影となり潜んでいた。
ぐったりと横たわる身体があちこちに転がっているのは凶悪な毒の所為である。それとは別に男が倒した者もいた。念には念をと自らが仕掛けた刺客の様子を窺うために城へ忍び込んだのだが、タイミングが少しばかり早く刀を握れる者が残っていたのだった。毒が焚かれた城は時が止まったかのようである。そして正攻法ではないこの手口を採った刺客は流石忍であり、大盗賊石川五右衛門の落とし胤と称しているだけあると男は思う。恐らく彼等は標的をいとも容易く屠るのだろう。この小さな城が血の海に満ちるところを想像するとおぞましい───が、それよりも。
何故、青葉がここにいるのだろうか。
屋敷へと近付いた男の目に飛び込んできたのは、先日城下で声を掛けたおなごだった。笛を嗜んでいるらしいことと上田の外の世界を知りたがっていること、そして青葉という偽の名前しか知らない。毒を吸い込み倒れる瞬間に居合わせた男は反射的に彼女を引っさらってしまったのだった。闇が色濃く溜まる中にその身を横たえる。しかしすぐに彼は微かな違和感に気が付いた。

「………?」

至極上等な振袖。初めて見た時結っていた髪は腰まで下ろされ、毛先までよく手入れがなされている。城下で見た快活な印象と異なるのは、暗がりの中で眼を閉じているからという理由だけでは説明がつかない。確かに素性のわからないおなごではあったが、果たしてこれがただの町娘だろうか。そもそも何故城にいる。彼の眉間に皺が刻まれる。彼女は真っ直ぐに伸びた樹であり、生い茂る葉身だと思っていたが、どうやらその梢は曲がりくねっているようである。そしてその先にある青々とした葉は振袖のような霞の色に覆われていて男からは見ることが出来ない。視界が曇り、ぼやけて、ひとひらの葉すら掴めない───だからこそ、手を伸ばしたくなる。

「ぁ………っ、う、」
「、青葉」

青葉をどうするべきか、暫し悩んでいた男だったが彼女が身じろいだことにはっとした。薄目を開け小さく口を動かそうとする、何かを伝えるような仕草。男は彼女に耳を寄せるが、その声を聞き取れないうちに細い身体ががくがく震え出す。間もなく、ふつり、蝋燭の灯が風にさらわれたように再びその意識が途切れた。

「青葉、おい…っ」

慌てて男が彼女の肩を揺するも、深い眠りが目覚めを妨げていた。この毒に抗うことは不可能だろう。恐らく兵卒も忍も、真田幸村も。そこまで考えて彼はある予感に行き当たった。この身なりの良さ。自由に動くことの出来ない境遇。食事処における客の視線。もしも青葉が、真田に連なる者だとしたら。
まさか。男はゆるゆる首を左右に振った。主が執着する者の血縁をこのように気にかけるなどあってはならない。第一姫君が供を付けずふらりと─しかも花街に向かって─歩くなどあるものかと彼は自らに言い聞かせる。しかし一度着いた疑念の火はなかなか消えてはくれないのだった。もしかしたら今夜、彼女を囲繞する籠が取り払われるのかもしれない。

「………」

男が布越しに深く息を吐き出す。真田幸村が討たれたとなれば彼女は悲しみに暮れるだろうか。漆黒の中でも輝くような白い頬を指先で撫でる。するりとした感触が心地良い。地に垂れる手を優しく握り、男はそっと彼女に顔を寄せた。



36



「───竜胆?」

空が白む気配がする。身体の芯が縮こまりそうな寒さの中、佐助は鳶色の大きな目でまじまじと手に握られたものを見つめた。
薫を見つけ出すことは非常に難航した。部屋は布団すら敷かれておらず、彼女がつい先程までいた気配もなかった。ふらつく脚を叱咤して屋敷中をくまなく探し、それでもいないとわかると二の丸や三の丸へ。鼓動が速度を上げて彼の全身を打ち鳴らす。目の奥がちかちかと爆ぜる。焦り冷静な判断を下せなくなり、城郭の中を何度も行き来した結果、佐助が薫を見つけたのは太陽がむずがりながら姿を現した頃だった。
彼女は敷地の隅に一人倒れていた。呼吸は微かにしか感じられない。佐助の背に冷たいものが這い上った。氷漬けにされたかのようにすっかり冷え切った身体を抱え、彼は急ぎ自室へと戻る。解毒薬を煎じなければならなかったし、彼女の近くにいたかった。そうして作った薬湯を幸村に届けてから部屋へと舞い戻れば、薫の横たわる布団の傍らにはアナスタシアがいた。

「…ちょっと、いくらなんでも暑すぎよ」
「………う、」

アナスタシアが手で顔を扇ぎながら溜息を吐いた。炭を大量に入れた火鉢から熱気が立ち昇る。薫は掛け布団と掻巻に幾重にも覆われ蓑虫のようだった。昏々と眠る彼女は予断を許さない状況ではあるが、大袈裟なまでにこんもりとした布団は少し可笑しくもある。「薬草を扱う時は器用なのに」と文句を言うアナスタシアに返す言葉もない。ぴくりとも動かない薫を彼は不安気に見つめる。毒への耐性が全くない彼女にとって、伊賀でも禁制となった程の劇薬は相当な威力だっただろう。アナスタシアは布団の外に出ていた手を握ろうとして、

「───」

しかし数瞬の躊躇いの後、長い髪を指で撫でるだけに留めた。絹のような手触り。少しの間そうした後、彼女は暑さに耐えられないとばかりに部屋を辞した。

「………」

アナスタシアの気配が遠ざかったところで佐助は懐に手を入れる。取り出したものは花弁の先が茶色く変色した竜胆だった。薫を見つけた際手に握られていた、紫色の小さな花。何故彼女がこれを持っていたのか佐助にはわからない。薬草ではあるが解毒の効能はなく、真田を辿れば笹竜胆の家紋を用いた清和源氏に至るとも言われているものの薫がわざわざこれを探すだろうか。毒が散布される中彼女が単独で逃げようとしたとも考えにくい。屋敷から離れた場所に倒れていた姫君───しかし不可解なことはこれだけではない。
ある方角の見張りに当たっていた兵と忍が斬られている。薫を探す途中に佐助は部下から報告を受けた。彼等は幸い命を取り留めたが、石川組を名乗る盗人達は毒を用いて城を眠らせ侵入したのではなかったか。刺客とは別に忍び込んだ者がいる。守を突破したかなりの手練れ。狙いは何か。

「っ、」

佐助はふと我に返った。敵襲も気になるが今は薫の容体が何よりも優先すべきこと。昏睡状態が続くことは非常に危険である。しかし目を覚まさない限り薬を飲ませることが出来ない。

「…薫」

瞼にうっすらと血管が透き通っている。安らかにも見える寝顔。唇が微かに開いていた。佐助はそれを暫く見つめる。助けなければならない。薫を守りたい。これ以上迷ってはいられなかった。彼は自らの口に薬湯を含み、薫に覆い被さった。

( 20120520 )

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