四肢がびりりと痺れる。頭の中は揮発して思考が消えてなくなってしまいそうになる。眠気とは異なる、強制的に波を引かせる力に薫は抗いたくとも抗えずにいた。

「…っ」

息を吸い込みたいと肺を浅く緩く動かすが、毒を含んだ空気を取り込んでは苦しくなるばかりだった。平衡感覚も奪われつつある。二本の足で立てているのか倒れているのかすらわからないでいる薫は、自らの身体が微かに揺れていることにぼんやりと気が付いた。規則正しい間隔でもたらされる動きに、───遠い昔、千曲川にて佐助に乗せてもらった小舟を思い出す。上田城の南に流れる川にてゆらゆらと漣に傾いては戻る手漕ぎ船を操っていたのは、若草色の装束を纏う者だった。佐助に謝らなければならないという意識は今や川底よりもっと深いところに沈められている。振動に身を任せるしかない薫の鼓膜に、低くくぐもった声が聞こえてきた。

「…まさかあなたがここにいるとは思いませんでした、───青葉の君」



35



「幸村様!!」

襖を開けた佐助の目に入ってきたものは、衝立の向こうに倒れる部屋の主とその小姓の姿だった。散らばる煙管と湯呑。うつ伏せになった幸村の上に六郎が覆い被さっている。この状態では二人の生死がはっきりとしない。佐助は息を殺して恐る恐る幸村達へと近付いた。幼子の持つ糸を左右から思い切り引いたような緊張感。畳がぎしりと鳴る。瞬間、感じた殺気に全身が総毛立った。

「!!」

衝立の奥から突如として伸びた太刀筋を佐助は膝を折ることで避ける。片腕を軸に両足を浮かせながら、続けて放たれる突きを苦無で受け止めた。刺客は一人、髪を括り顔に火傷のような跡のある男である。鍔のない長刀から素早く鋭い攻撃が繰り出される。佐助はそれらを全て弾き返し応戦した。金属同士のぶつかる甲高い音が何度も鳴る。

「おとなしくしててくれよ、どうしてもその男の首が欲しいんでね───盗っ人の面子にかけて」

しかし、煙草を咥える口から吐き出された言葉に佐助ははっとした。一旦身を引き体制を整える。顔半分をぴたりと覆った布の間から唸るような声が漏れた。

「そんな、くだらないもののために、上田を───」

苦無を構えた佐助は相手をにらまえながら背後に横たわる主を思う。面子などのためにここを壊されてはならない。強力な毒を用いて上田城を眠りの淵へ追いやった者達への激しい怒りがこみ上げた。敵の言葉を最後まで聞かずして忍具を振るい手首を斬る。血が噴き出た時には既に、佐助は相手の懐に飛び込んでいた。上段の構えから振り下ろされる刃筋をかわしてもう一方の手首に蹴りを見舞わせる。重い音と共に骨が砕ける感触がした。男の顔が苦痛に歪む。

「ありえねえ動きしやがって!!
猿かテメ…!!」

敵が急ぎ刀を手から手へと持ち替えるももう遅く、佐助の鋭い眼は彼を捉えていた。咆哮混じりに繰り出された攻撃をいなし足を踏み込む。苦無の刃先を相手の腕に深々と突き立てた。力を込めたままそこから首筋にかけて一気に斬り裂く。迸る鮮血。敵の身体が力無くくず折れる。それでも彼は残り僅かな意識で幸村達の元へ這い寄ろうとしていた。

「盗ら…ねーと…石川組…の…名…がす…たる…」

獲物ににじり寄るため全身で藻掻く刺客。そのしぶとさを絶つために佐助は彼の首に苦無を打ち込んだ。この地を脅かす者に容赦はしない。

「上田汚した罪、死、もってあがなえ」

首根に真っ直ぐ落ちた刃により男は漸くこと切れる。佐助が慌てて幸村を見やると、微かに胸元が動いており寝息が聞こえてきた。まだ命は奪われていない。よかった、と安堵すると同時に緊張が和らぐ。毒で消耗していた身体には立っているだけの体力が残っていなかった。佐助はがくりと畳に膝を着く。

「───しかし…この毒………」

甲賀の出の佐助も初めて体感する種類の毒。先の男の言葉からすると伊賀で使われているものだろう。呼吸が荒くなり眩暈がする。手足には痺れるような痛さがあった。己でもこれぐらいの症状が出るならば、忍隊の部下や城の者は皆意識を失っているだろう。動ける者は才蔵と、もしかしたらアナスタシアだけだと佐助は唇を噛む。刹那、彼の背中に雷が落ちたかのような衝撃が走った。

「───薫」

佐助は確かめるように彼女の名を小さく呼ぶ。薫は果たして無事だろうか。自室にいるのならばこの幸村の部屋からそう離れてはいない。しかし、城全体が活動を停止しているこの状況では敵が残っているのかどうかも定かではなかった。もしもここを離れた途端、他の刺客が幸村を襲ったとしたら。解毒薬も作る必要がある。一刻も早く薫を助けたい。あらゆることが佐助の頭の中に溢れ返り零れ落ちそうになる。

「………っ」

両の腕に抱え切れない。大切なものが多過ぎて、何かのために足掻こうとすれば他の何かを失いそうで。佐助は自らの無力さに叫びたくなる。見つめる畳の縁に縫われた六文銭。鉄錆に似た臭いと広がる血の海。薫の、守りたいものを守るという誓い。ならば、己自身が守りたい存在とは何か。

「───薫、っ…」

彼女の笑顔が見たい。もう一度。何度でも。佐助は深く息を吐き出し立ち上がった。頭がくらくらする。黒布に隠れた口元を引き結び、彼は静かに地を蹴った。

( 20120517 )

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