灰梅色の帯が苦しい理由はふたつある。ひとつは食事処の店員がサービスで餡蜜を大盛りにしてくれたこと。そしてもうひとつは、この目の前の男から他国の話を大いに聞かせてもらったことだと薫は思っている。
黒衣の彼は方々を旅していた。陸奥、相模に京、遠くは肥前へも足を運んだと聞いた彼女の驚きは大きいものである。特に京の様子は非常に興味深かった。絢爛豪華で多くの人で賑わう都。見たことのない土地を想像するだけで胸が満たされる。上田の外に出てみたいという薫の思いが益々膨らむ。

「…あ。」

男が蕎麦を食べ終わってから暫くして、薫の前にあった餡蜜の器も空になった。言葉少なな彼から話を聞き出すため、手より口を動かしていた所為でもある。男は彼女が食べ終わるのをじっと待っていた。両手を合わせ満足そうに微笑んだ薫を確認して、男は袂に手を入れる。会計を済ませるために店員を呼ぼうとし、しかし何かを思い出したように眉を顰めた。路銀が、と呟く声が彼女の耳にも入る。

「…手持ちの品を売らなければ銭がないことを失念していました」
「…あ、そんな、旅のお方にお支払いいただくなど」

ばつの悪そうな男に薫は慌てて首を振る。長旅は路銀が嵩むし、伊勢への道程はまだまだある。話に付き合ってもらった礼として食事代を払おうとした彼女は、懐を探ってすぐにはっとした。

「………お財布忘れた………」

今薫が城下にいるのはそもそも、姿の見えなかった幸村を探すことが目的だった。硬貨を使う必要などないと判断したため、銭を収めた巾着は自室に置いてきていた。通りをうろついていたのに財布がないなど男に奇妙に思われてはいないか。顔を赤くしたり青くしたりと大忙しの薫を食事処の店主が止めに入る。

「ああ、いえいえお代は、」
「すまないが」

結構、と言おうとした店主を遮り男が立ち上がった。背が高く黒ずくめの彼に店内の視線が集まる。男は腰帯に触れ、そこに差していた黒く細長い袋を手に取った。しゅるりと黒紐を解き中から取り出されたものを見て薫が息を呑む。

「代金は後日きっちりと支払います故、今は"これ"でご勘弁願えますか」

黒漆で塗られた竹の管。よく使われているからか艶が消えている。端には藤が巻いてあり、指孔の内側は紅い。細かい装飾のひとつひとつに薫は目を奪われる。男が管を両手に構え、口元へと近付けた。彼女の鼓動が速くなる。大きく息を吸った途端、ひゅお、という高音が店中を震わせた。鋭く澄んだ音を奏でるそれは、横笛の原型とも言われている───竜笛だった。



26



どくん、と心の臓が揺れた。鉛の入った管から流れる音は薫の知る篠笛よりも大きく、高い。太くごつごつした指が孔を素早く打つ。かと思えば、長く続く息で優しい旋律を紡ぎ出す。高低も強弱も自在に操る竜笛の音が、場を支配していた。

「───!!」

上手い。ただ単純に、それしか言葉が思い浮かばない。小さな肺や手では到底及びもしない力強さに薫は圧倒された。祭りの日に篠笛が壊れて以来吹いていなかったが、無意識のうちに膝の上で指が複雑な旋律を追って動いている。明るく雄大で、激しさを含んだ曲は初めて耳にするものである。間近で聴く分迫力が増した演奏に彼女は引き込まれていた。心を揺さぶられる。まるで竜笛という名の由来の通り───竜の鳴き声を聞いているようだった。その背に乗り、どこか遠くの空を駆けているような心地になる。
先程の男の話を思い出す。陸奥の寒さ、小田原城の立派な総構え。肥前で見たという、時に凪ぎ時に荒れ狂う広大な海。それらをひとつひとつ自らの瞳で確かめたくなる。薫は目を閉じて笛の音に身を委ねようとした。竜が彼女を乗せ空を舞う。風を切り、上田を飛び出し、雲の切れ間から日の本のあらゆる大地を見下ろそうとする。

「っ、」

しかし次の瞬間、笛を奏でる男の目がはっきりと彼女を見た。集中するように伏せられていたまなこが突如として上げられ、薫を捉える。彼女の肩が強張った。鋭い視線に意識さえ絡め取られる。呼吸が速くなり、血液が速度を上げて駆け始めた。薫と目を合わせたまま男は笛を吹き続けている。顔を逸らしたい。このまま見つめ合っていては危険だと頭の奥が信号を発しているようだった。しかし、一分の身動きも男が許さない。もしも竜に睨まれたらこんな感覚に陥るのだろうかと彼女がぼんやり思った時、一際高い鳴き声が鼓膜に響いた。全身を貫くようなびりりとした衝撃に息が詰まる。微かに眉根を寄せて男が勢いよく笛を唇から離した。空気中に残響を木霊させ、音が止んだ。
一瞬の静寂の後に聞こえてきた歓声と拍手の洪水に、薫は目をしばたかせた。ひと呼吸も見逃したくないと演奏中ずっと瞬きをしていなかったからか、瞼がじんじんと疼く。灰梅色の帯が苦しい。耳の中ではまだ竜笛の音が響いていた。男の笛にすっかり心を奪われてしまったのだった。
食事処は彼への喝采で溢れ返っている。先程まで胡散臭そうに男を見ていた客達も、今や見直したとばかりに何度も首を縦に振っていた。店の外にも人々が集まっている。手を叩いていなかったのは当の黒衣の男と、

「…いや、これは、その…何と言うか、お代以上のものを貰ってしまいましたな」

と呆気に取られている店主、そして目を潤ませ頬を紅潮させた薫だけだった。

( 20120413 )

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