時々、思うことがある。
上田の人々は皆自分に優しいが、他の土地の見知らぬ者は自分にどのような反応を返すのだろうか。友好的に接してくれるのか、余所者だからと排他的なのか。世界は皆、己に優しいのだろうか。

「信州上田といえば蕎麦だとあらゆる知人に言われました故」

男はそう言って薫と視線を合わせた。頭に被った黒布から覗く瞳は鋭く、深い色を湛えている。長めの外套に肩の鞄、合わせのきちりとした着流しと全て漆黒に包まれた風体は異質だった。夜明けの東雲色をじわりと闇夜に引き戻してしまいそうな雰囲気。そんな男に突然話し掛けられた薫は思わず身構えたのだが、問われた内容は予想外にも「お勧めの蕎麦屋はどこか」というものだった。男が旅の者だと理解してすぐ、彼女は一つ頷き微笑んだ。

「では、案内して差し上げます」

くるり、花街に背を向けて薫は歩き出した。兄の幸村のことは気がかりだが、恐らく才蔵や六郎が見つけてくれる筈。それよりも彼には是非ともここの良さを知ってもらいたい。きっと上田以外の土地の人々もこうして知らない顔に親切にするのだろう。世界は須らく優しいと信じているからこそ、まずは自分が優しくありたいと彼女は思っている。通りを進む薫の背中に、黒衣の男はかたじけないと声を投げた。



25



上田の城下町、大通りに店を構える食事処の店主は暖簾を潜った人物を見て口をあんぐりと開けた。仕立てのいい小袖に丁寧に纏められた路考茶色の髪。身軽な格好だがどこからどう見てもこの地を治める真田家の姫に違いない。既に席に座っていた客達も蕎麦を噴き出したり箸を落としたりと動揺を見せる。慌てて駆け寄ろうとした店主を薫は目で制した。凛とした瞳に居竦められる。その表情がふっと和らいだかと思うと、

「ここが上田で一番美味しいお蕎麦を食べられるお店ですよ」

と背後を振り返った。背が高く全身を黒で覆った、見たことのない男が立っている。目つきは妙に凄みがあり、見るからに怪しい。店主の頬が引き攣った。

「い、らっしゃい…どうぞ」

離れたところから空いている席を指し示すと、薫は店内へ足を踏み入れた。男がそれに続く。彼女がお忍びで城下へやって来ることは珍しかった。幸村と六郎を連れて町中をそぞろ歩きすることはあったが、男と二人という状況は初めてである。まさか逢引か。とりあえず薫が店を訪れたという評判が広まれば、明日は忙しくなるだろう。

「其方は?」
「…え、私?」

席に着いてすぐにかけ蕎麦を注文した男が薫に品書きを差し出した。彼女は戸惑いながらそれと目の前の黒衣とを見比べる。ここまで案内した後のことを考えていなかった。共に蕎麦を食べるつもりはなかったが、退店するにも気が引ける。男は薫に向かいの席に掛けるよう促した。

「折角なので上田の話を聞かせてもらいたいのです」

卓の上に湯呑が二つ置かれる。立ち昇る湯気に視線を移し、薫は仕方ないといったように苦笑した。これでは益々帰りにくい。付かず離れずの位置で動向を見守っていた店主に合図を送る。

「………じゃあ、餡蜜、ひとつ」

威勢よく注文を受ける声を上げながら、店主は男が頭に被せていた黒布を取る様子を盗み見た。そこから現れた髪もまた黒く、後ろで括っている。薫は興味深そうに男が外套を畳む様子を眺めていた。店主は胸を撫で下ろす。追い返すようで申し訳が立たないと─姫様ご用達の店と触れ回れることもあり─茶を二つ置いてよかった。

「上田は初めてですか?」
「ええ」
「何か用事が?」
「いえ、旅の途中で寄ったのです」
「どちらへ?
どちらから来られたんです?
何故上田に………、あ、…え、と」

早速矢継ぎ早に質問を浴びせていたことに気付き、薫は口元を手で押さえた。男はすっかり面食らっている。好奇心に溢れきらきら輝く双眸、不躾すぎたと赤くなる頬。俯く彼女に男はゆっくりと口を開く。低く、朴訥とした声だった。

「ここからもう少し、北へ下ったところからやって参りました。
急ぎの旅でもないので、道中あらゆる国を巡りたいと思いまして。
最終的には、」

そこで男は一旦言葉を切った。目線を外し、他の客の会計をしていた店主を見やる。どきりとした。聞き耳を立てていたことを悟られただろうか。しかし厨から蕎麦が茹で上がったという知らせを聞き、店主がその場を離れる。薫は男の話の続きを微動だにせず待っていた。

「………伊勢へ」
「…それはまた随分と長い旅ですね」

目を丸くする薫へと出した餡蜜は通常のものより大盛りだった。向かいに蕎麦を置きながら店主は男を見下ろす。眉間が強張っていた。伊勢へ行くとは言ったものの、まともな旅人ではないという印象が拭えない。何か余程のことをしでかしたのではないか。来世での救済を願いに参拝に赴くも無理はない。

「それにしても上田はいいところだ」

蕎麦を啜りながら男は店内を見回した。席はほとんど埋まっており、それぞれ話に花を咲かせている───しかし皆して薫と男の関係が気になっていた。匙を手に取り彼女は首を傾げる。

「、そうですか?」
「田畑は潤い、民は皆笑顔で、…蕎麦も美味い。
真田の治世が上手くいっているのでしょう」

通りで会った時よりも柔らかくなった男の表情。薫も瞬きしてからぱっと顔を明るくした。自らの住む土地を居心地がいいと思ってくれたら幸せだし、何よりも兄を褒められたことが嬉しい。不思議そうな男に彼女は慌てて言い訳する。流石に自分から真田幸村の妹だと打ち明ける訳にはいかない。

「あ…幸村、様は、とても懐の大きなお方でいらっしゃいますから」
「成る程。
…ところで…風の噂で上田には出雲からやって来た踊り子がいると聞きましたが」

薫同様食事処の店主もきょとんとした。どういう話の飛躍の仕方だ。出雲の踊り子のことを訊くなど───斜向かいの茶屋でよく団子を大量に食べている女子はそれ程に有名なのか。馴染みの客がやって来たことで店主は再度二人の側を離れた。「豊作祝の席で神楽舞を披露していた者かもしれない」と話す薫の声が小さくなる。

「あの男と姫様、どういう関係だ?」
「恋仲か?」
「まさか、幸村様が許さないよ」

常連客達がひそひそ声で囃し立てる。素性を隠したままの姫君に、胡散臭い旅人。この奇妙な逢引が良からぬことをもたらさなければいいが。店主がちらりと二人を振り返れば、相変わらず薫の目は男をじっと見つめていた。

( 20120410 )

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