目が覚めた時、非常に曖昧な景色だと才蔵は思った。明るくも暗くもない、昼とも夕ともつかない室内。暖か過ぎず、涼しさを感じるわけでもない。こんな刻に目覚めることは珍しい。そもそも戦忍として深く寝入ることは滅多になかった。昼夜の境を問わず熟睡していたのは、怪我と───帰ってきた、という安心感からだろう。

「…気分はどう?」

微温湯の中を漂っているようだった。慣れない感覚に皮膚の表面がむず痒い。しかし、決して不快なものではなかった。そう伝えると、先程の声の主が続けて尋ねる。曖昧な空気の中に咲く一輪挿しのような存在。

「白湯、飲む?」
「…おう」

才蔵が身を起こそうとすると、薫のほそりとした手が背を支えた。梔子色の袂が揺れる。服部半蔵に斬られた背中が微かに痛んだ。柔い力添えにより起き上がった彼は傍らで行われている動作をぼんやり眺める。沸かした湯を湯冷ましに移し、更に白の器へ。

「白磁か?」
「うん、手頃な大きさのがこれしかなくて」

妙に高級そうな湯呑茶碗に才蔵がぽかんとする。怪我人に飲ませる白湯に白磁を使うとは。真田の姫はどこかずれているのかもしれない。そうして薫は注いだ白湯を彼に手渡した。するりとして持ちやすい感触に落として割らないよう手に力が篭る。一口飲むと熱くなく、冷めすぎてもいない。曖昧な温度だがそれは温いという言葉で形容出来る。
尖った部分などどこにも見当たらない、只管丁寧に磨かれた曲線のような空間だった。そしてそれを作り出しているのは薫である。穏やかで、周囲の愛情を一心に受け、───それでいて世間を知らなさそう。だからこそ自らの内の鋭さを際立って感じる。疼く傷痕。やっぱり気分は最悪だ。才蔵は白磁をぐいと傾ける。

「…情けねえ」
「え?」

知らないうちに声が漏れていた。温かな液体が身体に染み渡る。そうして代わりに才蔵の中から溢れ出たものは言葉だった。



21



また、伊佐那海を守れなかった。出雲で伊達政宗に攫われた時、何もすることが出来なかった。目の前から呆気なく消えた伊佐那海に、動けない身体を疎ましく思った。そうして佐助とアナスタシアが奥州から彼女を奪還したと聞いて、心が苛立った。女一人自らの手で守ることすら出来ないなんて。ほんの少しの妬ましさと、後悔。どこまでも格好悪い。

「…才蔵…」

出来ないならやらなければいい。こんな歯痒い思いはもうごめんだ。必要だなんだ言ってきた甲賀猿のことは当てにしたらいけない。幸村のオッサンのことなんざ知るか。そんな卑屈な胸の内を吐露してしまったのは多分、このどっちつかずな部屋の空気のせいだった。肯定も否定もしない曖昧な返事か、若しくは優しく慰めてくれることを期待していたのか。しかし、湯呑を見つめる彼に薫が発した台詞は全く予想外のものだった。

「…才蔵はすごいね」
「………はあ?」
「だって守るために戦うってつまり守りたい人のために命を賭けてるってことでしょう?
強くないと出来ないことだなあって思って」

思わず才蔵は面食らった。この有様を本当にわかっているのか。無数の瘡蓋、未だ解けない包帯。榛色をした大きな目をじっとこちらに向ける薫は一体何を見ているのか。いやそれが出来てねえからという才蔵の反論は、「ここには」という彼女のまろやかな声に遮られた。

「佐助がいてアナがいる、六郎も筧も兄上も───伊佐那海も、私もいる。
みんなで立ち向かえば何とかなるかもしれないじゃない?
一人でどうこうするならそれは傭兵と変わらないし、…奇魂を欲している勢力が大きすぎる」
「、」

伊佐那海から聞いたのだろう、奇魂という単語に才蔵が反応した。確かに徳川と伊達を相手取って戦うにはまだ自分は弱いことを実感する。十蔵の援護と共に伊達の忍と戦ったこと、鎌之介が乱入した結果半蔵に打ち勝ったことを思い出す。凛とした瞳に穴が空く程に見つめられる。

「一人で何とかしようだなんて、私は心配」

もう今までの傭兵とは違う、上田の人間だと言う薫。桜貝のような爪がついた手が布団の上をつうと撫でた。彼女が穴を空けた箇所から、鬱々とした思いが流れ出していく。

「…でも私は、才蔵なら大丈夫だって信じてる」

どうして薫はこんなに易々と己を受け容れてくれるのか。真田の姫はどこかずれていて、世間を知らない。それでも、何か大事なことを教えられた気がする。白磁の中身が空になる。ゆっくりと深く息を吐く才蔵に、薫が楽しげに笑ってみせた。

「それにね、誰かに守りたいって思ってもらえることってものすごく幸せなんだよ」
「………」

才蔵は一つ瞬きをした後堪らず小さく噴き出した。守られることを常としている彼女だからこそ言える言葉であり、成る程その思いを今日の薫は全身で表現している。奪う側だった人間が誰かを守り、幸せにする。何とも言えない気持ちが才蔵の中に満ちる───否、面白いようで可笑しいようで、嬉しい。にこにことしていた薫がゆっくり立ち上がろうとする。

「薫?」
「伊佐那海、呼んでくるね」

長旅の疲れからか最近食べるか寝るかしかしてないんだよね、と呟きながら薫が踵を浮かせる。長い髪がふわりと肩を滑り胸の前に零れた。それに触れようとした手を、才蔵は咄嗟に掴んでいた。

「…才蔵?」
「あ…いや、」

白磁のような手。少しでも力を入れれば折れてしまいそうで、ささくれ一つ見当たらずとても綺麗だ。薫はきょとんとしている。悪い、と謝って離せばいいのに才蔵の手は動かない。この気持ちはどう言い表すことが出来るのだろう。曖昧で、不明瞭で、でも優しくて円やかなこの空気にもう少しだけ浸っていたいと思ったことだけは確かだった。
薫が身じろぎする。爪立てていた足を寝かせ、正座の姿勢に戻る。顔にかかる髪で表情ははっきりと読み取れない。さわさわと波打つ心を感じながら、才蔵は深く俯いた。

( 20120319 )

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