それから暫く、上田城においては何事もなく日々が過ぎていった。幸村は六郎に急かされ渋々と政務をこなし、薫は兄を叱咤しながら文を書いたり茶道や華道に親しんでいた。初の後任の侍女とも仲良くやっている。
佐助とは相変わらずだった。城を囲む森の中や千曲川へ足を延ばす時は必ず彼が一緒に着いて来る。新鮮で澄んだ空気を浴びる薫のしなやかな姿に佐助がどぎまぎする光景もいつものものだ。変わらない日常───伊佐那海達がやって来る前に戻ったようだった。

「お、薫」
「兄上、六郎。
お仕事は進みましたか?」
「何とか終わらせていただきました」

ぱちん。庭を眺めながら花を活けていた薫に幸村が声を掛けた。げんなりした顔の彼は恐らく六郎に小煩く言われていたのだろう。当の小姓は疲れなど全くない様子で幸村の後ろに付き従っている。薫は苦笑しながら吾亦紅を手に取った。茎の長さを整える。ぱちん、鋏を動かす度音が鳴った。

「ふぃー、疲れたわい。
そんな時は可愛い我が妹の膝枕で、」
「兄上?」

どかりと勢い良く座った幸村は妹の膝に向かって倒れ込もうとした。しかし直ぐ様薫が手の刃物を陽に光らせる。今は幸村の護衛が任務なのか、庭へと降り立つ石段の近くに蒼刃を連れた佐助が控えていた。髪を刈られるか、また縁側に落とされるか。小さく喉を鳴らし彼は姿勢を戻す。
よく晴れた日だった。空の薄青には雲一つない。薫の柑子色の振袖が目を引く。幸村がぼうっとした頭を無造作に掻いた。口腔から煙がふかりと立ち昇る。

「いーい天気だのう。
こういう日は一日じゅう空を眺めて寝転がっていたいもんだ」

仕事などせず、と呟く彼に六郎が「若はいつもそうでしょう」と溜息を吐く。静かな昼下がり。寧ろ、静かすぎる。
音がない、と薫は思う。伊佐那海の明るい声、十蔵の怒鳴り声、才蔵の───強くて、優しさを含んだ声。彼らといることが楽しいと知ってしまったからこそ、それのない毎日はゆったりとしているようで何時の間にか過ぎていく。音がないと目に映る色彩もどこかぼやけて見えた。

「しかし才蔵らどうしているのやら…連絡のひとつもよこさんとは」

考えることが同じなのは血が繋がっている故か、幸村は彼らのことを口にした。上田を経ってこの方、伝達は一切なく現在地も状況も不明だった。何もないから連絡がないのでは、というアナスタシアの言葉には確かに説得力がある。幸村が彼女に膝枕をするよう命じる横で薫は無表情で茎を切る。ぱちん。真赤な吾亦紅の花。花言葉は"変化"。

「!!」

その時、高く鋭い鳴き声が辺りに響いた。全員弾かれたように青空を見上げる。朱刃、と名を呼んだ佐助の手首に、まだ成長しきっていない木菟が着地した。右の脚に巻かれた、細く折り畳まれた小さな紙。しゅるりとそれを解いた彼の顔が、一瞬にして強張った。

「佐助?」
「どうした?
金の無心でもしてきたか?」
「幸村様!!」

薫が立ち上がるより早く、幸村が佐助の手の内から紙を奪い取った。嫌な予感。彼女も草履を突っかけ石畳の上へ降り立つ。兄は暫し文面を見つめた後、「出しゃばってきおったのう」と低い声を発した。

「派手好きの風雲児めが。」
「なに!?
どうしたの!?」

六郎の眉が小さく動く。伝達を握り潰す幸村に薫は近付いた。そろりと紙を掌から引き抜き、アナスタシアと共に中を覗く。しかし使ったことのない漢字と点と線の連なる暗号に彼女はぽかんとした。

「…えっと、何て書いてあるの」
「………伊佐那海が」

背後のアナスタシアを怪訝な顔で見上げると、彼女は碧眼を瞬かせる。押し並べて険しい表情を浮かべる四人に対して蚊帳の外の薫は暗号の内容を問うた。六郎が躊躇いながら口を開く。次の瞬間、彼女は頭を重いものでがんと殴られたような衝撃を覚えた。



17



目の奥で火花が爆ぜる。二本の脚でちゃんと立てているかわからない。───伊佐那海が奥州の伊達政宗に連れ去られたことを聞いた薫の背を冷たいものが這う。

「…ど、して、伊佐那海が」

何故伊佐那海が、何故伊達政宗が。才蔵と筧は。アナスタシアが柑子の背を支える。きつく締められた帯が苦しい。薫は深く俯いた。晴れた日の庭に似合わない沈黙が落ちる。頭の中で様々なことが渦を巻く。奥州。敵方。上田を脅かそうとする存在。祭を襲った忍。出雲を焼き払ったのはどこの勢力と言っていたか。灰色の感情に支配されそうになる。───否、

「佐助、アナスタシア!!」

幸村の声に薫ははっと顔を上げた。佐助が片膝を地に付け下知を待つ。彼女の背中にあるアナスタシアの手に力が篭った。大きく息を吸い込み命を発する幸村は、勇士を統べる者の表情をしていた。

「なんとしてもウチの勇士を取り戻してこい!!」

毅然とした幸村の瞳。佐助の纏う空気がぴんと張り詰める。薫は不安気に彼を見た。唇を固く引き結んだ佐助も姫君を仰ぐ。下知を諾した凛とした眼差しが彼女を捉えた。アナスタシアも、六郎も同じ眼をしている。薫の心臓がざわつく。何か大きなものに巻き込まれている予感は確かにある。正体は定かではないし、恐怖だって感じる。───それでも、戦えなくても、きっと出来ることがある。両の手を胸の前で握り締めた薫は真っ直ぐ佐助を見つめ返した。任せた、という彼女の強い意を汲み取った佐助は、一つ頷きその場から姿を消した。

( 20120312 )

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