演奏を終えた薫が舞台から降りる途中に幸村と六郎の様子を見やると、案の定ぽかんとしていた。無理もない。民に向けて吹くのだと言い聞かされていたにも関わらず彼女の篠笛は佐助一人だけに向けたものであり、恐らくその曲想はだだ漏れだった。それでも上田で随一と称される薫の奏でた音と美しさに惜しみない歓声と拍手が贈られる。

「兄上、」
「よき笛であったのう、薫?」

幸村の前で両の膝を揃えた薫に兄は酒瓶を差し出す。小言の一つや二つもらうことを覚悟していた彼女は意外に思いながら手を伸ばした。幸村は大抵のことならば妹を甘やかす。徳利に注がれた酒を舌で舐めると身体の中心がかっと熱を発した。

「薫様、演奏が終わりましたので紅を」
「あ、うんうん!!」

そのまま幸村の隣に留まった薫に初が声を掛けた。念入りに施した化粧の中でただ一箇所、唇はほぼ地の色に近い。「ではこちらで、」と促す侍女の目の前をすうと影が横切る。薫が初を振り向いた瞬間、

「───失礼いたします」
「え?」

眼前いっぱいに六郎の姿があった。身を引こうとする彼女の頤を直ぐ様捉える細い手。薫は驚きで声も上げられない。初よりも先に彼は指を水で濡らし、雲雀の絵が描かれた貝紅を携えていた。上を向かされた薫の唇に薬指が押し当てられる。口元を滑らかになぞる指によりかんばせに華が咲いた。六郎の顔が非常に近い。長い睫毛がよく見えた。全身の感覚が唇一点に集中しているようで所在なく目線を動かす。初の唖然とした表情と若いおなご達の顔を赤らめた姿が視界に入った。

「…六、ろ…」
「お美しゅうございますよ」

六郎の薬指が離れていったところで薫は大きく息を吐いた。憂いを帯びた瞳の中に微かな優しさが見て取れる。幸村は盃に口をつけながらそのやりとりを横目で見ていた。淡々と元の場所へ戻っていく六郎へ戸惑いながらも彼女が礼を述べると、舞台の上にゆらりと人影が現れる。伊佐那海の舞が始まるのだった。
大和笛の高音に鈴と太鼓が続き、詠手が口を開いた。伊佐那海が扇子を操り腕を回す。厳かな巫女舞。かと思いきや、履物で思い切り床を鳴らす音が響いた。太鼓に合わせて両足を浮かせ、勢いよく腰を落とし舞台を叩く。

「…神楽ってあんな舞だったっけ」
「なにやら殺気立っておりますね…」

首を捻る薫の横で幸村と六郎はやはりぽかんとしている。無理もない。他人をどうこう言える立場ではないが、これまた豊作への感謝を表した舞ではないと薫は苦笑した。左脚をすうと天に持ち上げて止まり、軸足で素早くターンした後開脚して扇子を開く。身体能力の高さと所作の美しさは確かにあるが、豪快でとかく初めて見るような舞だった。才蔵と何かあったのだろうかと彼女は訝しむ。さわさわと募る不安。幸村の拍手に混じり、ひゅうと空気を裂く音が聞こえた。

「あ…っ!?」

立ち上がろうとした伊佐那海の周りに苦無が落ちる。先端に結ばれていた札が一人でに爆ぜた。六郎が身を乗り出し、幸村の腕に薫は頭を抱き込まれる。瞬く間に舞台から煙が立ち昇り、辺り一面が真白に包まれた。



09



「初!!
薫を連れて二の丸へ逃げよ!!」

爆発音に全身を竦ませた薫は兄の手により無理矢理立たされた。煙幕を吸い思い切り噎せる。初が彼女の腕を後ろから引いた。伊佐那海の姿は見えない。

「薫様!!」
「…っ、伊佐那海、どこ!?」

煙のせいで方向感覚まで失いそうになる。四方を見渡していると、人の流れに逆らい幸村と六郎に迫る者の姿が確認出来た。口元を覆った男の指先からぎらりと光る糸が放たれる。二人の距離が急激に近くなったことから、共に太糸で拘束されたのだとわかる。

「兄上、六郎!!」

足を止めた薫を初が力の限り引っ張った。幸村と六郎、刺客らしき男の姿が遠ざかる。誰が、何のために。そんなことを考える余裕もなく民に混じり逃げ惑うことしか出来ない。引き摺られるようにして二の丸へ向かっていた薫だが、突如大きな身体にぶつかり弾き飛ばされた。

「きゃあ!?」
「薫様!?」

膝をつき顔を打ちそうになるのを辛うじて堪えるが、今日の格好では脚が擦り剥けてしまっただろう。薫が慌てて身を起こそうとした時───ふと、地面がぐにゃりと歪んだ気がした。

「痛………え、え、え?」

眩暈でもしたのかと瞬きを繰り返すも、やはりすぐ傍で何かが蠢いている。肌の上を走る悪寒。強い気配を感じ恐る恐る首を曲げると、薫の頭程ある大きさの目と視線がかち合った。恐怖が全身を駆け抜ける。ずるりと動く身体にこちらを見ている瞳、今、彼女はうわばみの懐にいた。

「───!!」
「薫様!!」

薫が声の限りに悲鳴を上げようとした刹那、ぐいと強い力で腕を引かれた。次いで胸元を突き飛ばされ、漸くうわばみの視線から逃れることとなる。たたらを踏んだ彼女を顔見知りの家臣が受け止めた。一体何が、と振り返った彼女の呼吸が止まりそうになる。彼女の目に入ったものは、うわばみの腹に身体を締め付けられた初の姿だった。

( 20120223 )

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