この祝事における伊佐那海の舞が神へ奉納するものだとしたら、薫は上田の民へ感謝を表すために笛を吹くと位置付けることが出来る。好天と豊作を恵んでくれた神々へは巫女が舞を奉上し、田植えから刈り入れまで弛まず働いた里の者はこの地を統べる真田の系譜が讃えるべきである。
薬指の腹で孔を叩き音を打つ。素早い音程の変化からビブラートを効かせた鋭い高音。息が続かなくなるままにそれを一旦収束させ、薫は素早く口を開いた。背中を曲げ取り込んだばかりの新たな酸素を吹き込む。滾る感情を止められない。城の一角でその演奏を聴いていたアナスタシアが面白い、と呟いた。

「でも、可哀想でもある」
「………は?」

傍にいた才蔵が解せぬと表情を歪ませた。彼はつい先程伊佐那海にバカだのケチだの罵倒されたばかりであり、釈然としない思いを抱えている。風が運ぶ篠笛は民謡とも囃子とも、また神楽などの祭礼音楽とも異なる旋律を鳴らしていた。今まで聞いたことがない曲だと才蔵は耳を傾ける。竹筒特有の柔らかく澄んだ調子から遠くまで届く甲高い音まで自在に繰っているのは、確か上田城の姫だった筈だ。

「別に、フツーに上手いんじゃねぇの?」
「…ま、忍に雅なんてわからないものね」

薄く笑うアナスタシアに益々怪訝な顔になる才蔵。言の葉として表現されなくとも饒舌に奏でられる音色が、豊穣を感謝するためのものではないことなどすぐにわかる。たった一人への恋慕を切々とうたう薫を思いアナスタシアは瞼を閉じた。こんな風にしか思い人へ気持ちを伝えることが出来ない姫君は滑稽で、そして哀れでもある。

「姫サマは大変なのよ」
「………わかんねえ」

上田城に身を置くようになり幾日も経つが、才蔵はまだ薫とまともに会話をしたことがなかった。



08



薫の笛は不思議だ。
装束が木葉とぶつかりがさりと音が鳴る。速度を上げ駆けているため空気を切る音が鼓膜に響く。なのに佐助の耳に最も鮮明に聴こえてくるのは彼女の篠笛だった。感動で涙を流したり胸を揺さぶるような楽音とはまた違い、閉じ込めておくべき感情を内から引き摺り出されそうになる。薫の笛の音には強力な力が秘められているとしか考えられない。それに少しでも抗うため佐助は自らの庭を疾走していた。どこまでも着いて来る旋律にいっそのこと耳を塞いでしまいたいとすら思う。

「…っは、…っ」

薫の笛を聴くと衝動に身を任せ叫びたくなる。頑丈に閉めておいた蓋が決壊し濁流に呑まれそうになる。彼女のことで頭がいっぱいになり、許されてはならない思いが溢れ出す。何故薫はこんなにも自分を掻き乱し、翻弄させるのだろうか。
地面に足を付けた途端爪先の下にあった葉が動く。ずるりとバランスを崩した佐助は慌てて片手で近くの木を掴んだ。

「───!!」

息が切れている。堪え切れず佐助はもう一方の手で目を覆った。それでも薫の姿が網膜から離れない。明るく笑う薫が、照れて頬を染める薫が、拗ねたように怒る薫が、艶やかに着飾った今日の薫が、彼の心を支配する。自分自身でも受け止めきれないこの激情に名があることを、佐助はまだ知らない。
彼がこんなにも惑乱している様をよそに、森の中は喜びに満ち溢れる。植物も動物も薫の笛を好いていた。木々は共鳴するように葉を揺らす。野兎の番いが長い耳をぴんと伸ばして寄り添っている。薫がまるで春を呼んだかのように、万物が息づく。周囲の浮足立つ雰囲気から取り残されてしまった佐助は戸惑うことしか出来なかった。彼の中の芽吹はとっくの前に始まっていたことだというのに。

( 20120223 )

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