降水確率90%なんて、最早雨は降るに決まっている。
天気予報で言われていた通り雨に降られた。朝から灰色の分厚い雲が広がっていたため嫌な予感はしていたが、ぐずぐずと地面を焦らした空は昼過ぎに漸く一気に崩れ出す。これ程までに雨が降る日はいつ以来か。世界を覆い尽くす豪雨と轟音を神の慟哭だと思う者はバルスブルグ帝国には少なからず存在する。
問題は、夕方から参謀部直属部隊───通称ブラックホークに任務が与えられていたことだった。大して難しい内容ではない。しかし担当として割り当てられていたヒュウガ少佐が雨が降り始めた直後忽然と姿をくらました。この天候の中どうしても任地へ赴きたくなかったのだろう、午前中からさんざごねてはいたが本当に逃亡した少佐にはある意味尊敬の念を覚える。隊員総出で捜索したものの結局サングラスの欠片ひとつ見つからず、痺れを切らしたアヤナミ様が「もういい、名前とコナツの二人で行け」とこれ以上ない低い声で言い出しても何ら不思議ではなかった。そうした経緯があり、私はふたつ歳下のコナツ君と共にどしゃ降りの中ホークザイルを飛ばしたのだった。
コナツ君。前述したヒュウガ少佐の幹部補佐を務める青年は名門ウォーレン家の出身だ。黒法術師を多く抱えるブラックホークに相応しい者かと思いきや、彼自身は術使いではないらしい。この部隊では比較的常識人の部類に入り、破天荒な上司に振り回される苦労人。とは言え彼は少佐がいるからブラックホークに入れたようなものだし、ベグライターという立場もあって決して強く出られない。少々頼りない後輩───私の中のコナツ君はそのような認識だった。

「…濡れましたね」
「レインコートの意味、なかったよね…」

任務を終えて格納庫へと戻って来た頃には、コナツ君も私もすっかりびしょ濡れになっていた。バケツをひっくり返したような勢いの雨は、雨除けの筈の合羽を通り越して軍服のコート、更にその下のワイシャツにまで染みている。私を後ろに乗せて視界の悪い中を進んでくれたコナツ君にお礼を言うと、

「いえ…私も相当急いでしまったので、すみません」

と気遣う言葉が返ってくる。確かに猛スピードの移動により横殴りに近い雨足が痛い程頬に当たっていた。それでも、月明かりのない中ヘッドライトだけでは心許ない私に代わりホークザイルを自在に操っていたコナツ君は流石士官学校を首席で卒業しただけある。
ぽたりぽたりと床に垂れる雨水で私達の足取りは一目瞭然だ。手袋を取り払う指先が寒さで悴む。首筋を流れる冷たい水がどうにも気持ち悪い。報告書を書くより先に自室へ戻って熱いシャワーを頭から被りたくなった。怠い足を何とか動かし廊下に出たところで、コナツ君が「名前さん、」と私の名を呼んだ。

「よかったら私の部屋で服を乾かして行きませんか?
男子宿舎の方がここからなら近いですし」
「…でも、いいの?」

有難い申し出に私はコナツ君の顔をまじまじ見上げた。濡れた前髪を手でかき上げる仕草は水も滴る何とかという表現がしっくりくるもので、思わずどきりとしてしまう。しかし「その格好の名前さんを部屋まで帰したら皆さんに何と言われるか」と深刻かつ大真面目に言う姿には小さく噴き出してしまった。折角なので厚意に甘えることにする。煌々と明かりが灯るホーブルグ要塞は、まだ激しい雨に打たれていた。

# # #

コナツ君の部屋は驚く程生活感がなかった。散らばっているものといったらテーブルの上の紙類だけで、後は私の部屋と比べ物にならないぐらい片付けられている。不躾なまでにきょろきょろと見回す私にタオルを差し出したコナツ君は、ここにはほとんど寝に帰っているだけのようなものだし、案外掃除がストレス解消になるのだと苦笑した。心底少佐に悩まされていると思うと同情を禁じ得ない。

「何か飲みますか…っても牛乳しかないんですけど」
「あ、温めるぐらいなら私やるよ」

冷蔵庫の中を覗いていたコナツ君に声を掛けると「じゃあお願いします」と安堵の笑みが返ってきた。髪を拭いたタオルを肩に掛けキッチンにお邪魔する。滅多に自炊しないのだろう、使い込まれた気配がないコンロで鍋を火にかけた。調味料が置かれたスペースに蜂蜜のボトルを見つけたので少々拝借。ふわり立ち昇る甘い香りに、要塞に着いて以来強張っていた身体から余分な力が僅かずつ抜けていく。彼氏でもない後輩の部屋で一体何をしているのだろう、落ち着かなさとぼんやりした気分が同居する。ミルクが人肌どころか熱くなりかけたところで慌てて火を止めると、蜂蜜を煮詰めたような色の瞳の持ち主が部屋の奥から戻ってきた。鍋の中身を覗き込んでからマグカップを取り出したコナツ君に、

「ありがとうございます、でも今お湯張ったので名前さん先に入ってください」
「…はっ?」

思わず私は目を見開いた。
風呂場まで使わせてもらうつもりはなかった。軍服が乾くまでの間部屋着を借り、ホットミルクを飲みながら疲れが取れたところで報告書のアウトラインだけ作る、それだけで十分だったのに。やんわりと辞退してマグカップを受け取ろうと手を伸ばす。

「…でも」
「、」

す、とマグカップが遠ざかる。コナツ君が手を自分の背中に回しカップを隠してしまった。困ったように眉を八の字にするコナツ君に見下ろされどぎまぎする。部屋に来ないかと誘われた時も感じたが、この後輩は思っていたよりも背が高い。

「名前さん、唇、紫色のままです」
「………え」
「風邪引いたら後が大変ですから」

コナツ君のまなこが揺れていることに気付いた私は手を引っ込めて俯いた。湿り気を帯びたタオルから冷たさが双肩にのし掛かる。未だ窓の外に聞こえる雨音。多分この人は思っていたよりも私のことを案じている。口を開き、しかしすぐ閉じる。ゆっくりと小さく頷いた私に、「名前さんが出てきたらホットミルク温め直します」とコナツ君は優しく微笑んだ。

# # #

バスタブの中へ脚を沈めれば、全身が凝り固まっていた上冷え切っていたのだと嫌でもわかった。熱が痺れを伴い肌を駆け抜け、肺の奥に溜まった息が抜けていく。身体を洗い流した後入った湯船にはずっと浸かっていたいと思わせる魅力があった。指先を組んで両腕を頭上へぐんと伸ばす。ぱしゃりと音を立てて湯が飛沫いた。解れていく。身体も、心も、芯まで。
コナツ君のことはブラックホークのいち隊員に過ぎないと思っていた。仕事嫌いのヒュウガ少佐に怒りながらも結局ペースに巻き込まれる、些か不憫で情けない歳下の男の子。ところが今日の私はコナツ君に頼りっぱなしだ。血の巡りが良くなった頭が引き出しを次々に開けていく。記憶の中のコナツ君はいつも、優しくて生真面目で努力家で私を心配する、後輩らしくない後輩だった。半分閉じかけた目で仄明るい天井を何となく眺める。浴室の外の脱衣スペースに設置された洗濯機からごうんごうんと音が鳴っていた。

「───!?」

微睡みから一気に覚醒した。浴室に足を踏み入れる前、私はコナツ君から借りて着ていたものを洗濯機に放り込んでいた。ワイシャツや白手袋は部屋着と共にドラムの中で回っているし、ハンガーに干したコートは分厚い生地の所為でまだ半乾きだろう。ここから出ても、着るものが何もない。
迂闊だった。雨に降られて本格的に疲れていたとは言え、酷いミスを犯してしまった。のろのろと立ち上がり湯船を後にする。直様冷える肌の表面をバスタオルで包み、私は深い溜息を吐いた。雨の中一人でホークザイルに乗れなかったり、ミルクを焦げつかせそうになったりとどこか至らないのは今に始まったことではない。そして、可笑しさ半分心配半分といった様子で世話を焼いてくれるコナツ君の優しさは、いつも私の弱い部分を擽っては消えない跡を残していく。

「…コナツ君、いる?」

バスタオルをきつく巻いてからドア越しにコナツ君を呼ぶが、洗濯機の唸るような音にかき消される。もう一度。部屋にいる筈のコナツ君が動く気配がない。ドアを細く細く、虫が一匹通るか通らないかといった程度に開けてあのうと声を張り上げる。ノブが回された音に気が付いたのか、コナツ君が不思議そうにこちらへ歩いてきた。

「名前さん、大丈夫ですか?
なかなか出て来ないから心配し…」

声が途切れる。開いていると言い切れないドアの向こうで色素の薄い髪が揺れた。ドアノブを握り締めながら私は正直に借りた部屋着を洗濯機に放り入れてしまったこと、身に纏うものがバスタオルしかないことを告げる。押し黙ったコナツ君に動揺し、焦り謝罪の言葉を続けた。

「ほ、本当ごめんね、あの…っ!?」

突然、ぐいとドアが押し開けられた。身体が脱衣場の外へと放り出される。コナツ君と目が合った、と思った刹那、強い力で腕を掴まれた。ノブが手から離れ、背中に感じた硬く冷たい感触に驚き息を呑む。ドアがばたんと閉まる音。私の身体は、コナツ君によって壁に押し付けられていた。
呼吸が上がる。顔の横にはコナツ君の手が置かれていて、とても逃げ出せる状況ではない。バスタオル一枚巻いただけの心許なさはきっちりと着込む軍服とは雲泥の差があった。髪を乾かし切れていなかったのか、鎖骨から零れるように雫が垂れていく。それを目で追ったコナツ君の喉が上下に動いた。

「…だから名前さんは放っておけないんです」

掠れた声に全身がかっと熱を持った。髪も身体も乾かした筈なのに、コナツ君の瞳だけはしっとり濡れて見える。どこからか漂う蜂蜜の甘い香りに思考が蕩けそうだ。骨張ったコナツ君の長い指が、私の胸元にあるバスタオルの合わせ目に伸びた。心臓がびくんと跳ねる。くらくら、眩暈にも似た感覚に襲われるが決してのぼせたわけではないとわかっていた。明朝、白紙の報告書にアヤナミ様が眉の辺りを引き攣らせることも、呑気に出勤したヒュウガ少佐ににまにまと笑われることも頭の片隅に追いやられる。目の前にいるコナツ君は後輩でも何でもない、ただの男だった。ドアの向こうで、洗濯が終わったことを知らせる電子音が鳴った。

「…今日、泊まっていきませんか」

答えなんて、首を縦に振るに決まっている。

20121118/title アメジスト少年

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