「あれ、シャンプー変えた?」という声が上がったのは、私が資料を配っている時のことだった。

会議が始まる前の部屋は和やかな雰囲気を保っていて、アルバイトの私が捜査官の方々に話し掛けられることも珍しくはない。問題はそれを訊ねた人物が私から一番遠い位置、対角線上の席にいることだ。質問の内容は勿論言わずもがな。

「…もしかしてそれ、私に言ってます?」
「うん。やっぱり変えたよね、匂いが甘くなったから香水かな〜って一瞬思ったけど。でも前と少し似てるみたいだし」
「ええと…同じメーカーからノンシリコンのシャンプーが出たので、それに変えましたが…」
「のん…?よくわからないけど前のより好きだなあ、」
「───佐々木」

どうしてこの距離で僅かな香りの違いがわかるのだろう。問い掛けると当の佐々木琲世一等捜査官はぱっと表情を明るくした。この方は匂いや気配というものに異常に敏い。他の捜査官が頭上で交わされる会話に反応していないことが救いだ。人のシャンプー事情などどうでもいいのか、ああまたこの二人だとうんざりされているのか。会議室を半周する途中で、真戸暁上等捜査官が部下の名を鋭く呼ぶ。

「はい?」
「気持ち悪いぞ。お前は犬か」
「いっ…」

"おかあさん"に言われては仕方ない。佐々木一等が唇を窄めうくぐと唸る。その背中を横切り、デスクに資料を置く時、ほんの微かに強張る指先。ホチキス留めの資料が手の内からなくなったところで、一人の捜査官がそう言えばと顔を上げた。

「タブレットの充電ケーブル、最近接続が悪いようなんだが…」
「ケーブルでしたら予備がありますよ。会議の後お席までお持ちします」
「頼む」

仕事が増えたが些細なことだ、席に戻る前に備品を確認すればいい。後は資料をファイリングして議事録を作成すればちょうどおやつの時間になる筈。一礼して会議室を辞そうとすると「またね名前ちゃん」と佐々木一等に手を振られた。つられて片手をひらりと動かす。捜査官の何人かがこちらを見た気がした。

「…名前とやら、この変態に手など振る必要はない」
「アキラさん…いつになく辛辣ですね…」

真戸上等は─多分他の捜査官も─私のことを佐々木一等にやたら絡まれている哀れなアルバイトだと思っているのだろう。私にとっての彼は、CCGの中で一番とっつきやすく親しみがある。同時に、一番謎な人物でもある。


切っ掛けは確か年末の大掃除だった。古い捜査資料をデータ化し、紙類を廃棄して、それがみっちり収められていた段ボールを潰そうとしたところカッターで指まで抉ってしまった夜。人間予期せぬところで怪我をすると痛覚より驚きが勝るようで、呆けたように赤い粒が盛り上がる様を見つめていた私に声を掛けたのが佐々木一等だった。

「大丈夫?カッターで切ったの?」
「はい…」

白と黒のツートンカラーをした髪が少し跳ねている。黒いシャツを腕捲りした佐々木一等が私の傍にしゃがみ込んだ。何があったか尋ねられ、一言二言返事をした記憶がある。そこまではよかった。

佐々木琲世は変態かもしれないと思ったのは、私の指を口に含んだ辺りからだ。

生暖かく、ぬるりとした感触を覚えた時、思考が真っ白になった。粒はとっくに大きくなり弾けていて、溢れる血を丹念に舐めとる仕草はまるで飲み水が尽きかけている旅人のようだ。指と指の間まで舌先が伸び、関節をなぞり、傷口を吸い、じゅっと音を立てる。そして「美味しい」とうっとりした表情で佐々木一等が呟いた瞬間、私の頭は考えることを完全に放棄した。

指はじんじん痛むのに、二の腕から腰にかけてぞくぞくした感覚が通り抜けていく。肌の表面が粟立つ。いかがわしい行為に免疫がないとは言わないけれど、仕事上でしか関わりのない異性に指を舐められて脳の奥が溶けていくなんて、どうかしている。指先を咥えたまま佐々木一等が深く息を吐く。肩が震えた。

「やばいな、癖になりそう」
「…佐々木一等はヴァンパイアですか」
「面白いこと言うね、苗字さん。聞いたことない?」

何を、と問わなくても、そのことはぼんやりと意識の表層に浮かんでくる。彼の検査結果を纏めて真戸上等に報告するのも仕事のひとつだった。佐々木琲世は半喰種で、人間の食べ物を受け付けない身体であることなら勿論認識している。喰種は人間の血肉を食糧としているけれど、佐々木一等は何を食べていると報告書に記載したのだったか。

「…ごめん、引くよね。僕が苗字さんの立場だったらドン引きしてる」

消毒しようか、と佐々木一等が漸く口 を離した。詰めていた息が細く抜けていく。既に胃の中に入った血を返せなど言うわけにもいかないし、この程度の出血なら目眩は起こさないだろう。デスクの影にしゃがんでいる私達に気を留める職員はいない。

悲しそうに目を伏せて笑う表情を見てしまったからだろうか。喰種の本能を垣間見たからと言って、畏れや偏見は感じなかった。私の中の佐々木一等は白鳩として生きる人間で、だからこそ変態かもしれないと思ったのだった。他人の傷を躊躇いなく舐めた佐々木一等のことも、それがなくなって物足りなさを覚えた自分をも。

「…えっと、引いてはいないです、けど」
「うん?」
「…私、そんなに美味しいですか?」
「………」

佐々木一等は私の言葉を真顔で噛み砕いてから口の端で薄く笑った。けれど瞬く間にその表情には怒りと呆れが滲み出す。まじまじと私を見る左目が赤みを帯びている気がした。掴まれたままの手を持ち上げられ、未だ止まらないでいた血液が手首の内側をつうと辿った。心臓が跳ねる。

「───消毒、しようか」

私を立ち上がらせた佐々木一等はさっきと同じことを言ってくるりと背中を向けてしまった。怒らせたのか悲しませたのか、はたまた笑いの沸点を超えたのか。判断がつかないまま私は早足で医務室に向かう佐々木一等を追いかける。大きな手は未だ離れない。


「名前ちゃんみたいな子がいるから僕は喰種捜査官でいられるんだと思う」。

年末に作った傷はお陰で綺麗に塞がった。けれど、医務室から帰る時の佐々木一等の言葉は今でも胸に刻まれている。職業的な問題なのか、人間か喰種かという問題なのかこれまたはっきりしない。佐々木一等は謎の人物だ。確かなのはあの時の声色がどこか思い詰めたようだったことと、あの夜以来二度と私の血を欲していないことだ。

変わったことと言えば、あの秘密以来私は佐々木一等にすっかり懐かれてしまった。それまでは確認事項があって話し掛けたり雑用の依頼で話し掛けられたりしただけだったのに、今は用があってもなくてもしょっちゅう私のところにやって来る。CCG職員でごった返しているフロアの中でも私の元へ迷わず挨拶に来るし、真戸班の執務室へ向かおうと廊下を歩いている時点で「名前ちゃん、うちの班に何か用?」と扉を開けて待たれているし、エレベーター内の残り香を辿って居場所を突き止められたことだってある。喰種に襲われるかもしれないから、と家まで送ってくれた─再三の固辞を押し切ったから勝手についてきたという方が正しいのだけど─時は正直とっても反応に困った。

「付き合っているのか」、そう問い質されれば否定する。「ストーカー?」「変態では」と心配する声は笑って誤魔化しておく。それも違うと言ったら、残った他人の見方は両極端だった。佐々木一等にとって私は直属の上司や部下でもないからフランクに接することができる相手なだけだという意見は最早誰にも、そろそろ私にも、通用しない。

「───名前ちゃんはいつもいい香りがするね」

髪の匂いを指摘されてから数日が経った。午後一の会議に使用する資料を纏めていた私の隣で本を読んでいた佐々木一等が、不意にこんなことを呟いた。仕事は次に振られる任務が決まるまで待機だそうで、けれど真戸班の執務室なら別の場所にある。メモの山から文字を起こしていた私の手が縺れた。あの日舐められた指先が脈打ち、リズムが乱れる。気にしたら負けだと自らに言い聞かせていたのに、たった一言で意識を持っていかれそうだ。シャンプーを変えたからではと顔の横に掛かった髪を鼻の前に持ってくると、そうじゃなくてと佐々木一等が苦笑した。

「若くて健康的で美味しそうな、名前ちゃんらしい可愛い匂いがする」

ぽつぽつとキーボードを触っていた手が完全に止まった。僅かな寒気と同時に体温が上がった気がする。随分と待たされた答えは、冷静に聞けば相当変態的な発言だ。パソコンに向かって前屈みになっていた姿勢を正してから、私は椅子を90度回転させた。文庫はとっくに閉じられている。喰種の食糧としてロックオンされているのではという同僚の失礼にも程がある言葉が頭を過ぎった。じっとこちらを窺う灰色がかった両の瞳を真っ直ぐ見つめ返す。

「…匂いは嗅げるけど喰べられないのって、生殺しだと思いますか」

ゆっくりとした瞬きの後、佐々木一等が腰を浮かせた。ふわふわしたツートンカラーの髪が、すっと通った鼻筋が近付いてくる。椅子の背凭れを掴む大きな手により私はすっかり身動きが取れなくなった。捕らえられた草食動物の気分だ。痕の残っていない傷口から血が溢れ出しそうな錯覚に陥る。微かに瞳孔が開いた眼から視線を外せない。佐々木一等が囁くように私に問うた。

「名前ちゃんは、僕に食べられたいの」
「…佐々木一等は、そんなことしないと思います」
「………うん、多分ね」

鼻先が触れそうな程近くまできていた佐々木一等の顔が、そっと離れていく。きっとこの至近距離で、私でさえわからない私の匂いを嗅いだのだろう。少しだけ持ち上がった口角に、全身を巡る血が茹だりそうだ。肺の中の空気を全て吐き出すと心臓が悲鳴を上げる音が聞こえた。何も考えられなかった。目の前で起きていることを受け入れるので精一杯だった。そうでないと、あの夜の舌の感触と物足りなさが蘇りそうで。既に本のページを捲っている佐々木一等を見つめる耳の奥で、食糧としてじゃなかったらもしくは、と慌てる同僚の声が響く。


それから更に数日が過ぎた。刷り上がった職員募集の広告を引き取りに来て欲しいという広報からの依頼に、台車を持って行かなかったのは間違いだった。紙の詰まった段ボールは見た目以上に重く、数メートル歩いては止まって休むことがさっきから続いている。

捜査官と比べると私は非力で、精々CCG内で彼らが働きやすいようにサポートをするだけだ。佐々木一等が白鳩でいられるための何かを持っているとも、到底思えない。段ボールを持つ手が痺れ、腕の疲労が全身に広がる。廊下の突き当たりが目的地だと自らを奮い立たせて再び足を動かした。途端、ヒールの負担に耐え切れずたたらを踏んでしまう。変な方向に曲がった足首に従って重心が傾く。パンプスが脱げるごろんという音に、廊下を歩いていた職員が私を見た。制御出来ない身体が崩折れていく。

「う、…わっ」
「名前ちゃん!!」

転んだ拍子に膝を強打、もしかしたら出血。段ボールは床に落とし広告をぶちまける。そんな最悪の状況は、いつまでたってもやって来なかった。腰に回された腕にぎゅうと力が籠もる。私の手を覆うように段ボールを持つ大きな掌。白い制服の袖が眩しい。名を呼ばれた気がしたけれど、もしかして。恐る恐る背後の相手を見上げると、緩く癖付いた白と黒の髪が目に入った。次いで、心配そうに私を見つめる瞳と視線がかち合う。

「───危なかった…」
「…さ、さき、一等」

鼓動が速い。膝が床にぶつかる直前、私の背に覆い被さり引き寄せたのは佐々木一等だった。眉根を寄せ安堵の息を漏らしている。また匂いを辿ったのだろうか、ゆっくり歩いていた私に追いつくのは容易だった筈だ。浅く呼吸を繰り返していると、先生、という声とこちらへと走ってくる足音が聞こえてきた。佐々木一等が背後を振り返り、段ボールを片手で持ち上げる。

「先生、急にどうし…、え」
「六月くんごめん、これ、突き当たりの部屋まで持って行って」
「は、はい!!」
「名前ちゃんはこっち」
「でも、え、佐々木一等!?」

重たい段ボールを渡された髪の短い捜査官─佐々木一等の部下のクインクスだ─が顔を赤らめる。私はと言うと、お腹に巻き付けられたままの腕により目的地とは反対方向にずるずると引き摺られていた。パンプスの片方は佐々木一等が持っている。すれ違う捜査官が何事かと私達を見ては、ああまたこの二人かと呆気なく興味を失っていく。転びかけた私を支えてくれただけなんですという言い分は誰も信じないだろう。

連行された先は普段ほとんど使用されない非常階段だった。昇り側に座らされ、佐々木一等が私の前にしゃがみ込む。

「大丈夫?怪我してない?」
「…はい…」
「本当に?」

幸い足首は痛めていないし、転ぶ寸前で助けられたからどこも怪我は負っていない。それでも佐々木一等は心配そうに曲がった方の足首に触れる。熱を持った手が踝を撫で、何箇所か指で押される感触がした。さっきと違う痺れが駆け抜ける。

「…ほんとに、大丈夫です。ありがとうございます、広告、ばら撒くところでした」

何百枚と刷られた用紙を散乱させていたら大惨事だった。佐々木一等があのタイミングで来てくれて助かったと心から思っている。嬉しかった。私が転ばないように支えてくれたことも、日頃声を掛けてくれることも。喰種に襲われるかもしれないからと家まで送ってくれたことだって。その奥に何が隠されていても、多分。佐々木一等は私を見上げ、真顔で言葉を噛み砕いた後、大きく溜息を吐いた。

「うん、まあ…そうだねそれはよかったんだけど、そっちの心配じゃなくて」
「?あ、あと転んで膝擦り剥かないでよかった…のかな…」

もしもあの時佐々木一等が来るのが間に合わなかったら、と考える。膝を強打、もしかしたら出血。そこにやって来たら、佐々木一等はどうするつもりだっただろう。階段に腰掛ける私の前に跪く姿勢だから余計、唇を寄せられる場面を想像してしまう。そんなことが膝でも指先でも首筋でも起きたら、なんて、疚しい光景。考えるだけでもおかしくなりそうだ。現に私は、目の前の佐々木一等の顔を見れないでいる。

こんなに不毛なもしもの話はやめよう。クインクス班の捜査官に段ボールを託したままだ。脱げたパンプスを履き直そうと佐々木一等の傍らに手を伸ばすと、ツートンカラーの頭を抱えて何やら唸っている姿が目に飛び込んできた。

「…佐々木一等?」
「…あああ、もうっ…」

がばり、と勢い良く顔を上げた佐々木一等が伸ばした私の腕を捕まえる。手の甲を柔く擽られる。薄暗い中でほの赤く光る左の眼差し。怒りと呆れが入り混じる顔には確かに熱が含まれていた。指先が疼く。佐々木一等が見えない何かで私の心臓を掴む。暴れてみても無駄な足掻きだ、どくどくと拍数を刻むだけでもうどうしても逃げられようがない。言い訳するような同僚の問い掛けが蘇る。食糧としてじゃなかったらもしかして、苗字のことが好きなんじゃないの。

「…これでもまだわからない?」

脳が蕩けていく。佐々木一等が身を乗り出して私の頬に触れた。ゆっくりとこめかみを通り抜け、髪に手を差し入れる。優しく諭すような手つきに、ぷつん、と何かが弾けた気がした。熱が膨れ上がって全身を侵食して、溢れてしまいそうだ。あの日指先から流れ落ちた血液のように。今度は全部、飲み干してくれるだろうか。近付いてくる佐々木一等に従い私は大人しく目を閉じる。わからないなら、わからなくても、わかっていたとしても。

「きみのことをたべちゃうよ」

20150128/海辺よりスタージュエリーに墜落さまへ提出

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