何を考えるでもなく騒がしい往来を眺めながら煙管を燻らせると、女将がいつも厳しい顔をする。
客引きの気はあるのか、とか、そういうこととは違う。私は飾りとして格子の中にいるだけでいいのだ。ただ、ぼうっとすると無意識のうちに癖が出てしまうから、そういう時は細く鋭い小言が錐揉みして鼓膜を通り抜けていく。
この日の本に存在する身分の差は雛壇のようだ。上へ行けば行くほど幅は狭くなり、壇上に立てる人数が限られてくる。やり方次第では数壇飛ばしで高いところへ行けるが、逆もまた然り。借金が原因で遊郭へ売られた時は落ちるところまで落ちたと思ったものの、今では何ひとつ不自由のない生活を送っている。そんな身分の違いは各々の振る舞いに滲み出るものだ。言葉遣いや纏う衣服、煙管の持ち方まで。そして、自らの身分と異なる言動を取ることは悪とされた。
だから、煙管の真中を筆を持つように支える私は女将から小言を貰う。「お侍さんと同じ持ち方をするな」。そんな私を、人差し指に赤塗りの長羅宇を載せた姐さん達が気の毒そうな目で見るのだ。
間延びした返事をして私は張見世を下がった。不釣り合いな陽光から影へ。この刻から女を買う後ろめたさがあるからか、昼の花街は息を潜めている気がする。雁首から種を落とし、馴染みの客からの品を確かめる。深緋に金糸を巡らせた艶やかな反物。溜息が出た。上田は貧乏な土地だと嘆いていたのは誰だったか。「…仕舞っておいて」そう伝えれば桐箱を持った男衆が眉を八の字にした。
姐さん達の真似が嫌だとか、引いては女郎という身分が嫌だとか、そういうこととも違う。はじめての客がお侍さんだったから。姐さんの名代で話相手をしてから数年経った今も、変わらず私に会いに来る、馴染みにしてほぼ唯一の男。気がつけばあの人と同じ煙管の持ち方をしている。
それまでは女郎を何人も上がらせた絢爛な座敷だったらしい。ある時ちょっと早く見世を訪れた男にちょうど手が空いていた新造の私が相対して、その日を境に座敷には男と私の二人きりしかいなくなった。男が楽しげに身の上話を紡いですぐ、私は畳の上で文字通りひっくり返った。
この地を治める真田幸村に贔屓にされるなんて、夢みたいな話が本当にあるものだ。他の姐さんに恨まれるかと冷や冷やしたが、美しい顔の小姓に会えないことを嘆く者の方が多かった、なんて笑い話も。見世替えを望む男が後を絶たない中、当の上田城主からの花代は弾むという悪夢さえ。
女将の小言は溺れるなという警告でもある。ぼうっとした顔であの人のことばかり考えるんじゃない。けれど、一度も袖を通さない反物を質に入れない分だけの優しさはある。
陽が傾き、見世の前の提灯に火が入る。客寄せの楽の音が聞こえる中、花街に熱が集まり始める。
藤紫の仕掛けを肩に座敷へと上がった私に、幸村様は微かに苦笑を浮かべた。着流しと無造作に束ねた髪。胡座をかいた足首の内側に刺青が走る。
真田幸村が足繁く通う女郎が私だという話はゆっくりと、しかし確実に見世の外まで広まった。格子の前で客を待てば他とは違う意を含んだ視線を送られる。問題は、それまで馴染みだった客が次々に身を退いていったことだ。「幸村様に愛でられた方が幸せだと思うから」と頭を撫でられたり、「幸村様と同等かそれ以上の花代なんて払えるわけがない」と口惜しそうに言われたり。随分と愛されているものだと幸村様は笑っていたが、真に慕われているのはこの領主だろう。
更に困ったことに、それが原因で私の稼ぎは明らかに少なくなった。「幸村様の」という札付きに伸ばす手はなかなかない。借金がなかなか減らない私に、女将は自らの客ぐらい繋ぎとめておけと怒ったが、そのようなつもりもなかった。反物で少しずつ虹が作られ始めたのは、この頃からだ。
盃に口をつけ、私を見据えながら喉を動かす。もう一方の手には煙管。高価な浜縮緬を要らぬものと言い、それでもこの人は藤紫色が収まった桐箱を届けさせるのだろう。溜息を内に押し込め私は酒を手に取った。蝋燭の橙は頬の熱を隠しているだろうか。この後のことを考えながら盃を見る矛盾は、勿論幸村様に気取られている。
酒の匂いが零れる。空いている手を引き寄せられ、私の額は幸村様の胸元に押し付けられた。熱い吐息が耳朶を擽る。肩を竦めぎゅうっと目を閉じれば、幸村様が笑い声を漏らす。
太夫ではない、ただの女郎だ。身請けなど出来る筈がない。大した学はなく三味線や琴を爪弾いては媚を売るしか能がない私を、小国とは言え上田城の主である幸村様が娶るなど、天地がひっくり返っても起こらないだろう。わかっている。落籍する分の金で、この人は私を花街に閉じ込めている。桐箱に仕舞われたまま一度も着られることのない反物のように。わかっているのだ。この人しかいないと、思っているのに。
黙ったまま俯いていた私に幸村様がからかうような声を掛ける。低い響きは弦の震えに似ていた。夜に溶ける暇もなく幸村様が私を抱き込む。崩れていた脚を掴み、強引に畳へと押し倒す。
声にならない悲鳴が出た。無理を通す人ではなかったのに。頭を打ち付けなかったことに安堵しながら私は視線を巡らせた。蝋燭の淡い光に照らされる幸村様の表情は、緩く笑っているように見える。
この人しかいないと思っているのに、この人と同じ雛壇には上がれない。同じ立場になりたいとか相応しい存在になりたいとか、そういうこととは違う。そもそも端から諦めていたことだ。けれど幸村様は楼の中でさえ私を苦しめる。懸想など、この花街で抱いても無駄なのだ。
足の甲を指先でするりと撫でられる。土踏まずを髪が掠める。腿の震えまで暴かれている気がした。抵抗らしい抵抗もできないまま、足首の内側に幸村様の唇が近付く。
火種を触った時のような、焼ける感覚が這い上った。息を詰めて私は幸村様を仰ぐ。ゆっくりと顔を離した幸村様の目は、暗がりの中でよく見えない。それでもはっきりとわかることは、くるぶしの骨の上を彩る深緋は私を縛り、繋ぎ止める呪いだということだ。
起き上がることすらしない私を横目に、幸村様が煙管を吹かす。管の真中を筆を持つように支える持ち方。報われない念が夜に浮かび、煙と共に溶けて消える。