名前ちゃん、という弾んだ声に名を呼ばれて振り向けば、どすっと重い衝撃がわたしを急襲した。

一気に全身が金縛りにあったように動けなくなる。前身から二の腕を巡り、背中へと繋がる圧迫感。自由の効くまなこは周囲から送られる痛い程の視線しか捉えられない。新学期早々の昼休み、突然誰かに正面切って抱きつかれたわたしは廊下の真中に立ち尽くした。

動転する頭をどうにか落ち着かせ眼前へと意識を移す。こちらの呼吸を差し置いた強過ぎる力に大柄で頑丈な相手を想像したものの、背丈はわたしと数センチ程度しか変わらない。柔らかそうな色素の抜けた髪。体格は薄いようで、しかし肩周りは案外しっかりとしている。そこまで認識したところで、わたしの頭が記憶の川を猛烈な勢いで逆流し始めた。

慌てて上体を反らした。相手の顔を確かめるため、ぎゅうぎゅうと締め上げてくる腕に抵抗する。「ちょ…あ、あの、苦し、」少ない酸素で抗議の声を上げれば、犯人もこちらを見ようと首を捻った。ガーネットに似た瞳と焦点が合わさる。刹那、わたしは逆巻く記憶の中に佇むある一点にぶつかった。

小学生の頃通っていた屋内プール。わたしを引っ張る力強い手。いつも明るかった男の子は、組んでいたリレーチームの中で一番小柄だった。再び流れに押し戻され現実へと立ち返ったわたしの視界に、赤みがかった目が細まる様が飛び込んでくる。

「久しぶり、名前ちゃん!!」

わたしを抱き締める渚の笑顔は、あの頃と変わらず愛くるしかった。

葉月渚とわたしは4年程前まで地元のスイミングクラブで一緒だった。1学年上、つまりわたしの同級生とリレーを編成し、試合で優勝したことは朧げに覚えている。コースに入る順番を待っている時はうきうきとはしゃぎ、指導の後は気怠さを物ともせずやっぱりはしゃいでいた元気な子。わたしにとって習い事のひとつでしかなかった水泳は小学校卒業と同時にやめ、渚とも会わなくなった。学区の関係で渚がわたしを追いかけて来なかったから尚更のこと、縁は途切れたと思っていたのだった。

胸の奥が甘く疼いているのか、痛みに震えているのかわからない。わたしに腕を回したまま渚が口を開いた。懐かしさが水中にいる時の感覚を引き連れてやって来る。心地良くて、でも、飲み込まれそう。

「嬉しいなあ、ハルちゃんとマコちゃんはすぐに会えたんだけど、名前ちゃんだけはずうっと見つからなくて探してたんだ。凛ちゃんにも会ったんだよ、オーストラリアから帰ってきて鮫柄学園に入学したんだって。そうそう、あのスイミングクラブ取り壊されちゃうって知ってた?」

名前ちゃん、前は可愛かったけど今は雰囲気変わって大人っぽくなった気がする。淀みなく喋る渚の瞳が煌めく。渚は変わらないね、と言いたくなった。上級生と泳いでいた時だって、遠慮して一歩引くということが全く当てはまらなかった。マイペースで、空気を読まず、恥じらいがない。渚の性格は仲間の3人だけではなく、わたしを前にしてもぶれなかった。

黙ったままでいるわたしに、渚の顔が曇り始めた。純度の高い宝石のような目が暗みがかる。背中にひやりとしたものが伝った気がした。

「もしかして名前ちゃん…ボクのこと、忘れちゃった?」

わたしを見下ろしているのに渚の表情は上目遣いのように見える。廊下からも教室の中からも突き刺さる好奇の目でそろそろ穴が空きそうだ。渚に守られている箇所以外。

"苗字名前が後輩に抱擁されていた"という情報は、田舎の学校らしく絶対的な速度で広まるだろう。そのうち睦み合っていただの既に親公認の仲だの恐ろしく歪曲されてもおかしくはない。渚はわかっていてやっている。例えば背の高い男の子に学校のことで話しかけられた時、綺麗なフォームで泳ぐ男の子に腕の使い方を問うた時、必ず渚はわたしの隣にいた。「今はボクと話してるの、そうでしょ?」と天使の顔を拗ねさせて、悪魔のような力で引き寄せる。

あの頃はまだ、可愛い独占欲だと笑って片付けられた。随分と懐かれたなと思っていた。しかし4月が始まり十数日、鮮烈な再会は牽制以外の何物でもない。楽しそうに水中を泳いでいた渚は、その奥底に重い鎖を潜めていた。

このまま何も答えずにいたらわたしは何と言われるのだろう。渚のまなこが薄膜で覆われたように見え、思わず焦り弁明を試みる。

「う、ううん…久しぶり、だね」

4年ぶりに口を開いた気がした。息が苦しい。渚はぱっと顔を明るくさせ、わたしを包む力を益々強くする。遠くから2人が走って来る様子を捉えれば、渚の髪が水面を滑る光のように輝いた。

「また一緒にいられるね、ずっとずっと!!」

20130810/title √A


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