鮮やかな彩を放つそれはまるで花弁のようで、恐る恐る触れると小さく、そして細かに震えたのだった。


この季節に相応しく、雨足はいつまでも途切れない。雫が地面を打つ音で目覚めた日は外出が億劫になる。殊の外、練習が休みであれば。

しかし、緑間は傘を掲げて家を出た。約束を反故にすれば彼女の怒りは避けられないし、自ら逢いに行くと言い出したことを見合わせたくもない。緑間は律儀で生真面目な性格だった。

それに何より、恋う女の顔を見たかった。

鍵の掛かっていない玄関の引戸を開け、勝手知ったる様子で家屋の中へ。鞄には必要最低限のもの─財布に携帯、テーピング、眼鏡拭きとラッキーアイテム─の他に、一冊の文庫本を忍ばせていた。縁側では名前がハードカバー片手に籐椅子に座っている。緑間が近付いても顔を上げようともしない。彼女の背後を通り過ぎ奥の部屋から同じ一脚を運び出す。オットマンは共用だ。緑間が籐椅子に腰掛けてすぐに脚を載せるスペースを空ける彼女に、気付いているなら挨拶ぐらいしろと抗議したくなるが、「そんなに構って欲しいの?」という返しを恐れてカードを切れずにいた。

苗字邸の縁側は雨戸が閉められる作りになっていたが、緑間が訪れた時は開け放たれていた。何の隔たりなく鼓膜へと流れ入る雨音は弦を爪弾くようで、今朝方起きた時の憂鬱さは今は全く感じない。それどころか気分が落ち着きさえする由は、隣で読書に没頭している名前の存在だろう。

文庫の表紙を捲る。梅雨どきの不快な湿度はひやりとした涼しさに形を変えていた。靴下を脱いでオットマンに据えた足裏から伝わる、肌が粟立つ感覚。寒くはないのかと緑間が名前を横目で見るもそのような素振りは一切ない。ページを繰る指先、少し伏せられた瞼、活字に入り込む横顔は温痛覚を忘れる程に集中しきっている。それでいて彼が何の断りもなく雨戸を閉めようとすると、
「暗い。湿気が篭る」
「………」
雫が落ちるように短く、そして鋭い声は、雨が降る中でもはっきりと聞こえた。

普段の緑間ならば、このような物言いをされたらこめかみに青筋を立てている。惚れた弱みは彼の性格まで変えてしまった。何も言わずに籐椅子に戻り、再び文豪の遺した世界へ。どこぞのバスケが下手なんだか上手いんだかわからない男程ではなくとも、読書は嫌いではない。

雨の匂いが鼻孔に留まっていた。樋から勢い良く水が流れる。庭先に見える、赤い芍薬。

こうした時間なら幾度となく過ごしてきた。緑間の頭が細かい計算を放棄するぐらい。高尾や周りの人間がもっと恋人らしく振る舞えばいいのにと呆れようと、傍にいられれば十分だと思っていた。それだけ名前に焦がれていたし、緑間はこと恋愛に関しては初心だった。

しかし、今日ばかりはおとなしくしていられなかった。

偶々一度読了した文庫を持参してしまったからか、それとも只、雨が止まないからか。どちらにしても酷い責任転嫁だ。本を投げ出して名前に覆い被さる。籐椅子の肘掛が軋んだ。濡れそぼった芍薬が視界の端に見える。彼女が顔を上げたのと緑間の指が頤に触れたのは、ほぼ同時。

鮮やかな彩を放つそれはまるで花弁のようで、恐る恐る触れると小さく、そして細かに震えたのだった。

僅かに開いた隙間に舌を滑らせる。呼吸ごと奪う深い口付け。眼鏡が邪魔だ、とふと思うが、一寸たりとも唇を離したくない。緑間の心は乱れているようで、たったひとつの衝動に突き動かされている。蜜を啜るように舌を吸えば柔い痺れが全身を這った。くぐもった声がかき消される。雨の匂いはいつしか甘やかな薫りに変わっていた。

顔を離した後の余韻にはまだ慣れない。名前との間に浮かぶ小さな空間は、湿った吐息で出来た宇宙のようだった。彼女が一言も声を発しないのはその先を許しているからだと緑間は勝手に解釈した。自ずから飲み込まれにいけば多分、絶対、引き返せない。力の抜けた指を手繰り寄せれば、ハードカバーが緑間の代わりに籐椅子を占拠した。

熱が混じった雨は当分、止まないだろう。


20130624/title 天文学

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