線路と車輪がぶつかる規則的な音、時折気怠げに降るアナウンス。聞こえてくるものはただそれだけだった。朝の通勤快速に大声で喚く人はいない。眠気を堪えたり仕事や授業のことを考える、無言で憂鬱さを訴える姿ばかりだ。多分、俺もその中の一人に入るのだろう。

毎日同じ電車の同じ車両に乗っていれば何人かの乗客は顔を覚えてしまった。彼らの頭の中を覗き込みたいとは思わない。しかし、俺の思惟が彼女に伝わればいいといつも考えている。毎日同じ電車の同じ車両、扉ひとつ分離れた位置に立つ彼女に、例えばコンロから漏れるガスのように。そうと気取られないうちに致死量を与えられたらどんなにいいことか。

勿論そんなことは不可能だし、彼女は気付いていない筈だ。

久しぶり、姫さん。という俺様の念には。


「只今電車が混雑のため5分程遅れて運行しております、…」

立夏を過ぎ、爽やかな風に暑さと湿度が混じり始めた頃。着慣れたスーツで駅のホームへと続く階段を昇り切れば、普段と異なる行先を示す電車が減速するところだった。構内に響き渡るアナウンスに今しがた滑り込んできた電車は遅延していた一本前のものだと理解する。

少し迷ったがタイミングよくやって来た電車に乗ることにした。行先は違えど目的地には停車するし、次の電車が何分後に到着するか読めない。階段近くで立ち止まっていた俺は判断を決めるや否や足を速めた。扉に駆け寄る人々に触発され、適当な車両に飛び乗る。体勢を整える間もなく後から乗り込む人達に奥へと追いやられた。鞄を引っ張り上体を捩り、パズルのピースのように人と人との間に身を収めたところで漸く、真正面に立つ乗客が目に留まる。

あ、と小さく声が漏れた。間違える筈のない、毎日見ている後姿。

目の前には、俺に背を向けて立つ彼女がいた。

どうやら彼女も電車の遅延により適当な車両に乗ったらしい。こんなに近くで見るなんて初めてだ。驚きで俺は彼女のつむじをまじまじと見つめる。しかしそれも束の間、更に身体を押された俺はたたらを踏んだ。目前に彼女の後頭部が迫り、下手に体重を掛けまいと慌てて全身に力を込める。肩や膝が当たる衝撃と、首筋を這う不快な熱気に眩暈を覚えた。揺らいだ視界の中に昔の記憶が鮮やかに浮かび上がる。


「佐助、あなたは自分の主のために戦いなさい」

音を立てて燃え盛る炎の中でも凛とした声ははっきりと聞き取れた。彼女は崩れる城にいながら微動だにしていなかった。

400年前の出来事を覚えているなんてどうかしていると思う。それでも、俺様は真田幸村に仕える隠密で、彼女は真田家と同じく武田の大将を主君とする家の姫君だった。

主である真田の旦那はおなごが苦手だったが、家同士の仲がよかった為交流はあった。破廉恥だ何だと理由をつけて訪問を避ける旦那に代わり俺が城に立ち寄ることだって出来た。用があってもなくても、彼女はいつでも嬉しそうに俺を出迎えた。彼女の周りは時間がゆっくり流れていて、笑うとふうわりと花が咲くようだった。自分が忍であることを忘れて穏やかな時間を過ごしたものだ。

武田と敵対する勢力に攻め込まれた城に俺が駆け付けた時には、もう、遅かった。

奇襲を成功させた敵方の士気は高く、全く衰えない勢いで城に火を放った。城主は一の丸前にて首を取られ、その娘は誰の声にも耳を貸さず、落ちる城と運命を共にした。城内に侵入した俺は目的を果たせず、散った花を弔うことしか叶わなかった。


「発車いたしまーす、お身体強くお引きくださあい」

駅員が声を張り上げる。視界は再び黒とダークグレー、少しの白で埋め尽くされた。三方からの強い力で身体を挟み込まれる。車両の外にはみ出ている人を無理矢理押し込み、ぐ、ぐ、と何段階かに分かれて扉が閉まった。腹を満杯にした電車は重たそうにのろのろと動き始める。朝の通勤快速は一駅分が長い。

前世なんて随分とオカルトめいている。それでもいつかの電車で彼女を一目見た瞬間、姫さん、なんてこの時代ではまず考え付かないことが頭に浮かんだ。柔らかい目元も小さめの唇も、俺の鳶色の髪だって変わっていない。こうして前後に立っていると背丈の差も400年前とほとんど同じことに気付く。

今はもう姫と忍という立場ではない。淡い希望。でも俺は、彼女に一度も話し掛けられないままだ。

何を躊躇っているんだよ、と自嘲したくなる。天井裏から驚かすように会いに行くことだってあったのに。俺様に怖いものなんてなかったでしょうが、と思ってみても、それは気が遠くなる程昔のことだ。

きっと俺は傷付くことを恐れている。彼女は気付いていない筈だ。救おうとした俺を拒絶し、自ら花を手折った過去。400年後の俺達は赤の他人なのだと思い知らされることを厭い、離れた場所から見守っていた。新しい関係を築き上げることも今更出来なかった。同じ電車の同じ車両に乗る、それだけでよかったのだ。それなのに。


「、」

がったん、と電車が大きく揺れた。すし詰め状態の乗客は一斉に同じ方向に傾く。流れに逆らわずに身体を揺らしていると、バランスを失った彼女がこっちに向かってくるところだった。元から真っ直ぐ立てておらず、少し押されるだけでも体勢を保てないのだろう。床を蹴る靴音。波打つ髪が、熱風に煽られて赤に染まったそれと重なる。

咄嗟に手を出していた。誰かと誰かの隙間から腕を引っ張り出し、彼女の細い肩を手のひらで控えめに支えてやる。今の俺が初めて触れた温度の高さ。逸る心臓に言い聞かせる。彼女は気付いていない筈だ。花弁は零れたりなどしない。期待するだけ無駄だと諦めが広がっていく。


「…ご、めんなさい、」

不意にか細い謝罪が前方から聞こえてきた。長らく聞いていなかった彼女の声。柄にもなく俺は緊張する。彼女とはこの400年間、そして、これからもずっと、交わらずに生きていく。そう諦めようとしているのに、俺は今でも心のどこかで待っている。毎日扉ひとつ分離れた位置に立つ彼女を気にしながら、振り子のような思いを巡らせていたのだ。

彼女が首だけで振り返り軽く頭を下げる。柔らかい目元が俺を見上げる。線路と車輪がぶつかる規則的な音、時折気怠げに降るアナウンス。それすら俺の耳には入らなかった。彼女が小さめの唇を小さく動かす。


20130519/海辺より思慮のあぶくさまへ提出

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