例えばここにハルセさんがいたらわたしは口を閉じたままだっただろうし、コナツくんなら「そもそも悩む場所間違えてますよ」と言ってくれた筈だ。
この仕事辞めようと思うんです、とぽつり呟いた瞬間、麗かな陽気が射し込むホーブルグ要塞の一室は不釣り合いな緊張感に包まれた。
確かに、つい先程まで迷っていた。でもわたしは言ってしまった。
アヤナミ様のデスクの前で直立不動の姿勢を取って切り出すか、ランチミーティングの前に言い逃げて午後は剣術練習に赴き執務室には戻らないか、悩みに悩んだのに結局書類をチェックしている最中に言ってしまった。始業後僅か一時間も経たない、三枚目の書類を開いた時のことだった。

「何故だ」

短く問うたアヤナミ様のかんばせは変わらず淡々としていた。わたしから書類が回らないため手持ち無沙汰になったのか、先日の会議の議事録を読み返している。しかし、その艶やかで色の薄い唇から零れた吐息の合間に身を凍らせる程の冷気が見えた気がした。
椅子に掛けていたブランケットを膝の上に広げる。そりゃあ怒るだろう、わたしはアヤナミ様のベグライターであり忠実な部下だ。
そんなわたしが辞職を申し出たのは、単に今日がエイプリルフールだからだ。

「…それ、言わないと駄目ですか」
「理由を訊かない限り辞職は認められないのでな」

もう一度言おう、わたしは忠実な部下だ。厳し過ぎる上司の許で日々ストイックに鍛えているし、どんな命でも背いたことなど一度としてない。不平不満は多からずあるものの、この職を辞めたいなどと本気で思うわけがないのだ。
ちらり、急ぎサインを入れた三枚目の書類を渡しながらアヤナミ様を再び窺うと、議事録の裏表紙を食い入るように見つめていた。ヒュウガ少佐の落書きが残っていたのかもしれない。この場に少佐がいたら名前たん嘘下手っぴだねー、なんてキャンディのような甘い笑みを向けられるに違いない。

「…ええっと、だって勤務時間長いし不規則だし休み取れないし給料低い上にボーナス弾まないし仕事は地味だしデスクワークばっかりだし実戦は想像してたより少ないし他の部署との関係悪いし、…」

とりあえず多からずあった不平不満を挙げ連ねていけば、想像以上に沢山あったことに驚いた。まさか尋ねられると思っていなかった割にはもっともらしい理由を述べられただろう。
決してアヤナミ様の部下という立場が嫌なわけではないし、軍に入れば多忙なことは覚悟していた。そもそも要塞勤務の前はまだ士官候補生だったのだから、待遇や環境の悪さは他と比較出来ない。十分見逃せる不満ばかりだ。
しかし困った。もっともらしい理由を挙げたことで、ごめんなさいエイプリルフールの嘘なんですと更に言えなくなってしまったではないか。
アヤナミ様が端から嘘だと見抜くと踏んでいたわたしにとって、この問いは誤算だった。クロユリ中佐の「馬鹿なの?」という冷めた声が聞こえてくる。もっと悩み抜いた上で切り出し方を決めればよかった。

「それ程までに意思は固いのだな」
「え?」

サインを終えたアヤナミ様がペンを置く音が部屋に響いた。完全に真に受けている様に、わたしの背に薄ら寒いものが走った。
このままでは辞職を受理されてしまう。かと言って今更ながら嘘という真実を告げたらそれはそれで怖いものがある。
俯きがちに溜息を吐くアヤナミ様の表情は軍帽と前髪で隠れていた。替わりにカツラギ大佐の苦笑する顔と冷蔵庫に苺のオムレットをしまっておいたという伝言を不意に思い出す。逃げるが勝ちですよという穏やかな声が、わたしの脳内に木霊した。
がったんと椅子を後ろに倒す勢いでわたしは立ち上がった。ブランケットが絨毯の上に落ちるが構ってはいられない。この張り詰めた空間から抜け出して助けを求めよう。扉の向こうにはブラックホークの皆さんがいる。

「まあ、あの、自分の将来のことなので、じっくり考えてから決めます、そうそうよかったらお茶でも、」

アヤナミ様の方を振り返らずわたしは部屋を出ようとした。予測不能の事態に呼吸が速くなる。しかし観音開きの扉の片方を押そうとしたところ、

「名前」

ノブに掛けたわたしの手に、一回り大きな白手袋が重なった。
喉の奥が引き攣る。肩の周りが強張る。一体いつの間に移動して来たのか、アヤナミ様がわたしの背後に密着するように立っていた。
その気配を認識した途端、自分がどのように呼吸をしていたかわからなくなった。

「貴様は私の忠実な部下だと思っていたが、そこまで辞めたいと考えているのなら止めはしない」
「あ、あの、」

わたしより背が高いアヤナミ様の声が頭のすぐ上から降ってくる。逃げたくても扉を開ける手は阻まれていた。自分の心臓の音がやたら煩く聞こえるのは、酸素が回らないのと恐怖からだろう。
広い部屋、上司と二人きり。世界から切り離されたかのように静かな空間には慣れたつもりだった。

「しかし貴様が優秀であることはよく知っている、せめて次の仕事先の口利きでもさせてもらおうか」
「は?
あ、アヤナミ様、まだやめると決まったわけでは」

ぎょっとした。すんなり辞意を受け入れられる程の存在だと思われていることは些かショックだったが、まさか転職活動の心配までされるとは。
気が遠くなる。嘘が嘘でなくなる過程は、嘘をつくことよりもすべらかだ。
ノブに触れたままの手が冷汗に滲む。それを知ってか知らずか、背後に立つアヤナミ様はどこか楽しそうにわたしの次の就職先を話し始めた。喘ぐように制止の声を上げても、普段無口な上司はこんな時に限って饒舌だ。そうして聞かされた内容に、わたしは益々驚愕した。

「業務内容は主に来客応対と広報、後進の育成だ」
「は、はあ」
「制服なし、三食食事つき、仕事のない時間は自由にしていていい」
「はあ…」
「求められるものは社交性や一般的なマナー、そして礼儀正しい振る舞いだが貴様なら問題ないだろう」
「ええと、」
「それと部下が数名出来るが好きに使うといい」
「…アヤナミ様、」
「報酬は家の財産から破産しない程度に持っていけ」
「………その…仕事の勤務地ってもしかして、」
「私の屋敷だ」

頭の中が真っ白になる。まだ完全なかたちのままでわたしの中にある魂を鷲掴みにされたような心地だ。
唐突に始まった説明だが、アヤナミ様の下で働いてきたわたしにはその意味がよく理解出来る。アヤナミ様も、わたしが理解していることをわかって言っている。
この方がわたしの嘘を見抜いていない筈などなかったのだ。
ならば、アヤナミ様の余りに回りくどくこの場では不釣り合いなプロポーズは、嘘か、真か。

「悪い話ではないだろう?」

アヤナミ様の囁きが鼓膜に流れ込む。甘美な響きに眩暈がする。目を回しながらわたしは背後のアヤナミ様を仰ぎ見た。
どうしてこの部屋には誰もいないのだ。ハルセさんもコナツくんも、ヒュウガ少佐もクロユリ中佐もカツラギ大佐も。
おかげでわたしは、アヤナミ様の美しく歪んだ笑みを独り占めする羽目になったではないか。

20130401/title 亡霊

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