ボクの目はあなたを見つめるためにあり、ボクの耳はあなたの声を聞くために存在している。

けれど、ボクの口はあなたを食べるためにあるのでも、あなたに愛を伝えるためにあるのでもない。


「良?」

彼女がボクの名を一番はじめに呼ぶ声には、いつも不思議な響きが混じっている。驚きと喜び。昼間の熱が残る空気と涼しい風が同居する今の季節、今の刻にぴったりだ。

俯けた顔を上げ、声の聞こえた方を見る。目が合って直ぐ様、ボク達は同時に頬を緩めた。


「名前姉さん」
「良!!
わ、もしかしてずっと待ってた?」

ヒールの踵を鳴らしながら姉さんが駆けてくる。早速足音に寄り添う鼓動がうるさい。陽が落ちる前から待っていたボクが気にしないでと首を横に振ると、姉さんは鍵を取り出すため鞄に手を入れた。

合鍵は持っていない。絵の具を少しずつ垂らすように濃くなっていく闇を見ながら、姉さんやバスケのことを考える時間が好きだから。それにボクがこのアパートを訪ねる日、姉さんは必ず仕事場から真っ直ぐ帰って来る。

それがわかるのはきっと、血が繋がった者同士通じるものがあるから、だろう。


「ただいま」
「お帰り、それとお邪魔します」
「ありがとね、いつも来てくれて」

鍵を開けた姉さんに促される。籠った湿度がボク達に気を遣うように外へ抜けていった。細い肩に掛けた桃色のカーディガンが翻る。姉さんもボクも気に入っているワードローブ。

部屋の中は相変わらず物で溢れていた。キッチンの奥に転がる空の缶とペットボトル、洗濯機から取り出したままの衣類の山。冬服が表紙を飾る雑誌の束は、この前来た時捨てるよう言ったのに。姉さんがボクの話を聞いていないのはいつものことだ。

でも、構わない。今度の古紙回収の日にメールをする理由が出来たから。ボクが好きでやっていることが姉さんの役に立つなんて嬉しいことこの上ない。だから、汚部屋寸前の1DKに住んでいても、冷蔵庫の中身がすっからかんだって、


「…姉さん、冷凍パスタばっかり食べてたら栄養が偏るよ」
「あ、それ美味しいんだよ。
色んな味が出てるから飽きないし」

部屋着に着替えた姉さんがえへへと笑う。形だけの勝負の行方ははじめからわかっていた。積み重なって雪崩を起こしそうな冷凍庫の中身にボクは溜息を吐く。テーブルに置いておいたたくさんのタッパーを見た姉さんが歓声を上げた。ボクが進んで何もかもを差し出す相手は、この人だけだ。


「ま、良の作るご飯が一番美味しいんだけどね」

生活能力の欠如。平たく言うと、姉さんは家事がこれっぽっちも出来ない。

就職を機に一人暮らしを強いられた姉さんは、周囲の多大な心配を他所に「何とかなる」と笑って実家を出た。姉さんを甘やかしてきた両親は慌てたが、同じく姉さんを甘やかしてきたボクは喜んだ。桐皇学園の寮は、姉さんの新居から程近い場所にある。


「女としてどうかとは思ってるんだよ、一応」

牛肉と厚揚げと大根の煮込み、鯵の南蛮漬け、おにぎりの具は姉さんが好きなおかか醤油。冷蔵庫の中はキャロットラペや肉そぼろといった常備食で埋めておいた。明日の朝それらを弁当箱に詰めるぐらいなら、姉さんでも出来るだろう。

ボクが寮のキッチンで作ってきたものを姉さんは満面の笑顔で食べている。咀嚼し、美味しいと褒めてくれる、忙しなく綺麗に動く口元。丁寧な箸運びは、ボクのことも優しく掬い上げてくれているようで嬉しくなる。名前姉さんの手は、ボクを幸せにする。

けれど、おにぎりを食べ終えた姉さんが口を尖らせて先のことをぼやいた時、ボクの心臓は一瞬にして温度が下がった。

女性は家事が出来て然るべき、なんて誰が決めたのだろう。今向かい合わせに座っている姉さんが顔を歪めて泣いていた日のことを思い出す。「もっと家庭的な人だと思っていた」と姉さんを振った知らない男。目の前がぶわあっと赤くなり、耳朶に熱が宿る。煮込みの中に入れた唐辛子を噛んだようだ。


「…無理に出来るようにならなくていいんじゃないの、姉さんは仕事も忙しそうだし、全部自分で家事をこなそうとすると、多分、大変、で…」

喉が締まる。渇く。くさくさした言い方で姉さんの意志を否定したことを後悔した。だから、だとしても、ボクはいつまでも姉さんの弟なんだ。

ごめんなさいと素早く謝る。水の入ったグラスに口をつけ、出かかった言葉と一緒に飲み干した。姉さんが食事を作れないなら、ボクが姉さんの傍にいる。姉さんが何も出来なくたって、ボクは姉さんの傍にいる。姉さんに会うための口実を、姉さん自身で奪わないで。

気まずい雰囲気を悟ったのか、冷房が音を立てて唸る。威嚇された兎のように項の産毛が逆立った。暦ではもう白露だ、そろそろエアコンのフィルターを掃除して濃い色のカーテンを取り付けないと。キッチン側の小窓を彩るレースのカーテンは、ボクが作る。

そんなことを考えでもしないと、頭がどうにかなってしまいそうだった。姉さんの手が、ボクの前髪を撫でていた。


「ありがとう、良のこと頼りにしてるよ」
「…姉さん」

指の先が額に触れる。しっとりとした感触。荒れてなどいない小さな掌がぼやけて見えて眩暈がした。視線を上げると姉さんは困ったように薄っすらと笑っている。弟を見る、大人びた姉さんの笑顔。


「じゃあ無理しないからさ、良が部活ない日に一緒にご飯作ってみたい」
「…う、ん」

姉さんの手が離れていく。額がひやりとして、名残惜しい。でも、こんな加護なんていらない。幸せはどうして、苦しさを伴うのだろう。

"また来てもいい"、言葉の意味に気持ちが少しだけ軽くなる。先に冷たくなった胸の奥を雫が囲っていた。涙になってしまいそうだった。零れないように全身にぐっと力を籠める。箸を持ち直して食事を再開する姉さんは、ボクの安堵に気付いていない。

この部屋を訪れることならいくらでも出来る。ボク達は姉弟なのだから。けれど、いつしか言い訳という鎧を纏わなければ、ボクは姉さんと会えなくなってしまった。ボクが姉さんを姉さんとして見られなくなったからだ。

近くに住む姉が自炊が出来ないからと寮長に断りを入れてキッチンを使う。外出許可証の空欄を埋める。はじめはただ単純に楽しかった。親元を離れても姉さんはボクの拠り所だったし、姉さんの役に立つことで満たされていた。

月日が経ち、バスケ部での練習を重ね、レギュラーとなり、勝利に貢献出来るようになった。でも、姉さんとボクの関係は平行線のままだった。一体いつからなのだろう、もしかしたら実家にいた頃からかもしれない。潜めていた卵を孵化させたくて、でも雛は一人では産みだせない。雌鶏のように孵らない恋心を只管作り続けるだけだった。


「…姉さん?」

明日以降に備えて白米を炊き、食器とタッパーを洗う。洗うものが極端に少ないせいでシンクはほとんど汚れていない。姉さんはマグカップを手に早々にソファで寛いでいた。ぽつぽつと交わしていた会話が途切れ、背後で身じろぐ気配もいつしか消える。

水を止めて振り返った。ソファの端で膝を抱えている姉さんは、静かにゆっくりと船を漕いでいる。目を瞑った顔はキッチンから見えないけれど、転寝していることは明らかだった。見え隠れする鼻筋や頭の後ろが何とも無防備で微笑ましい。けれど、姉さんがその手にマグカップを持ったままうつらうつらしていることに気付いたボクは、わあっと声を上げてソファへと駆け寄った。

幸いと言うべきか、姉さんは起きなかったし、紅茶は飲み干されていた。強張った手からカップを引き離す。指一本でそっと身体を横に倒せば、姉さんは呆気なくソファに沈んだ。ふわりと空に遊ぶ髪。猫のように丸くなった姉さんに声を掛ける。


「ほら姉さん、風邪引くよ」
「…ん、…」

緩く曲線を描く睫毛は長い。描き足された眉に、髪で隠れるピンク色の頬。

どうにかして起こさなければならない、と思う。化粧を落としてベッドに納めないと、明日の朝困るのは姉さんだ。頭、肩口、二の腕、手の甲、それとも、他の何処か。どこにどう触れていいかわからないボクは、姉さんを見つめながら途方に暮れた声で名を呼び続けるしか出来ない。どうしても、ボクのものにはならない寝顔。

そもそもこんなことで悩んでいる自体、おかしいのだ。血の繋がった姉さんに対してこんな気持ちを抱くなんて間違っている。好きになってはいけない人を好きになる、禁忌の意味は余りにも重い。

すっかり寝入ってしまった姉さんに、ボクの気持ちは悟られていないとほっとする。姉さんのボクに対する感情は、ボクが産まれた時から変わらないのだろう。触れることもままならない弟である自分が恨めしい。微かな寝息を全身で聞き、ボクは遣る瀬無い思いになる。

これほどの苦しさがいつ、どのように終わりを告げるのか、ボクには見えない。それでもボクはまたこの部屋を訪れ、葛藤に溢れた夜を過ごすのだろう。姉さんは、ボクの姉さんだから。


「またね、…名前」

部屋着のポケットに携帯電話があることを確認してから、ボクは荷物を全て抱えた。逃げるように部屋を出れば涼しい夜風が頬の熱を冷やしてくれる。マンションのエントランスを抜けたボクは手の内に携帯電話を握り締めた。大通りを足早に歩き、もう少しだけ姉さんから離れたら、すぐに電話をしよう。戸締りをしっかりして、ちゃんとベッドで寝るように。それと、明日の弁当のことも。ボクが姉さんに伝えるべきは、愛の睦言ではない。


「もしもし姉さん、起きた?…」

20130922/海辺よりnormさまへ提出

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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