ああ、まただ。見たくないものを見てしまった。校舎3階、眼下に広がる中庭での光景に私の気持ちは地中深くまで沈みそうになる。

どうして見たいと思わないもの程視界に入ってしまうのだろう。大学時代毎日同じ電車に乗っていたかっこいいサラリーマンの薬指に、ある日突然光るものを発見したなんてまだ可愛い方だ。例えば、制服を着ていた頃は知らなかった教員の内情。派閥争いや入試の現実を初めて知り、この伏魔殿でやっていけるのかと眩暈がした。その他にも、

「やあ、キミ達1年生?」

女子生徒に嬉々として声を掛ける長身、など。

海常高校に新人教師として着任した4月、廊下を歩いていると生徒に声を掛けられた。さっき授業を終えたクラスの子だろうか、振り返るとそこに立っていたのはとても背が高い男子生徒だった。手触り良さそうな黒髪が左目の上で自然と分かれている。なかなか整った顔の持ち主の名は確か森山といった筈。するとその切れ長の目がすうと細まって、

「先生、アドレス教えて」
「は?」

こんなナンパ紛いのことを宣ってきたのだった。

結局同じバスケ部の主将だという男子に蹴られて引き摺られて説教されながらすぐに退散したわけだが、そのインパクトは相当なものだった。後でクラスの担任に森山は普段どんな生徒かと尋ねると、

「チャラくない女好き」

なんて答えが返ってきて更に衝撃を受けたことは記憶に新しい。

森山は可愛い女の子を目敏く見つけては声を掛けまくるものの、滲み出る軽さと残念な性格が災いして大抵上手くいかないらしい。しかし決して遊んでいるわけではない。強豪バスケ部のレギュラーだし厳しい練習をこなしながら成績もそこまで悪くない、という担任の弁だった。森山は外見に関してだけは見る目があるからよかったねぇ、なんてフォローにならないフォローは聞き流しておく。兎に角、生徒数の多いこの高校の中では比較的早く名前を覚えた生徒の一人なことに変わりはなかった。

その後も森山はどういうわけか、

「可愛いな、オレの好みど真ん中だ」
「今日練習ないからデートしよう」
「日曜の練習試合、観に来てくれたら先生のために頑張る」

など懲りずに私を口説こうと挑んできた。その度に適当にあしらい、丁重に断り、主将に助けを仰いで切り抜けたのだった。女子生徒に似たようなことを言っている場面だって何度も見た。森山のお眼鏡にかなう子は私だけじゃない。そう言い聞かせてきた。

しかし、気付いてしまった。どうせ本気な訳がないと思うと同時に、落胆している自分に。

まるで未知の花にでもなった心地だった。図鑑に載っていない、誰にも見つけられない場所で楚々として咲き、ひっそりと枯れていく花。気付いてしまった瞬間、悟られてはならないという警報が私の中に鳴り響いた。5つも年下、しかも教員の立場で生徒に恋をするなんてあってはならないことだ。

だから、何人にも見届けられることなく花弁を散らせようと思ったのだった。恋してはならないひとを好きになったことは私がまだ幼稚だという証だが、蜜に溺れることなく大人として忍ぶる恋を終わらせるつもりだった。

この恋は決して、二人でするものではない。

校舎3階、明日の授業で使う資料を探そうと私は窓の外に背を向けた。別に森山が誰と付き合おうと構わない。それでいい、それがいいのだと一つ息を吐くと、

「先生!!」

急に扉が開かれた音に、思わず身体が縮こまりそうになった。

この短時間で中庭から3階まで昇ってきたにしては、森山の呼吸は全く乱れていなかった。対照的に私の心臓は全身を強く叩き始める。「今日も可愛いな」と頬を緩める森山が教室の中へと足を動かした。私は扉の方へ目を向けることなく本を探す振りをする。数歩離れた位置に立ち止まった森山の、

「先生、オレのこと見てたでしょ」

という言葉に、教材を抜き取ろうとした手が一瞬止まりそうになった。

森山がゆっくりとこちらへ近付く。一度も校舎の方向なんて見ていない癖に。目の前の可愛い子を引っ掛けることにもっと本気になればいいのに。「見てないよ」と小さく吐き捨てる。見てはいない、視界に入っただけだ。制服の衣擦れの音。私は書棚を睨み続ける。胸が痛い。花弁を毟り取られるような痛みなのに、この恋が、終わりそうにない。強張る私の左肩に触れたものは、

「確かにオレは可愛い子をすぐ見つけられるし、声も掛けるけど。だからオレは先生のことよく見てるし、先生がオレのことよく見てるのも、知ってる」

私よりも遥かに背が高い森山の胸板だった。

本当は私だって知っていた。私が森山を無意識に目で追っていることも。森山が私を見つけると、話していた女の子そっちのけで私のところに来ることも。

花の香を嗅ぎ分けるように顔を寄せる森山から首を逸らして避ける。赤くなった耳朶は今更隠せない。素っ気ない仕草は子どものようだが、あと少しの間だけ、強がりを許してほしい。蜜に溺れることなく大人として忍ぶる恋を、全うするから。


「…卒業式の後、迎えに行くから。絶対」

チャイムの音が遠くに聞こえる。森山の上履きがきゅっと音を立て遠ざかっていった。微かな歯痒さと期待を含んだ声。使わない資料片手に私は大きく息を吐く。次が空き時間で本当によかった。ずるずるとその場にしゃがみ込んでしまいそうになる。森山に私の中に咲く花を見つけられ、摘み取られる日を心待ちにしている。今はただ、頭の中はそのことだけに占められていた。


20130201/海辺より黄昏さまへ提出

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