幽霊なのだ、そう信じて疑わなかった。


霜止みて苗出づ4月、その日は夕方から天気が崩れ出した。そぼ降る雨は春の肌寒さを増長させる。高校に入学して約3週間、新しい友達が出来、授業にも慣れ、部活動が本格的に始まった頃だった。

傘を忘れた。置き傘は持っていたものの教室のロッカーから部室に持って行ってそのまま忘れたのだった。部活動後、上履きを脱いでローファーを持った時点で荷物が少ないことに漸く気が付いた私は友達に先に帰るよう伝えて踵を返す。靴下のまま階段を駆け上がってもそれを嗜める人は見当たらない。

雨の通学路を思うと憂鬱になった。まだ真新しい制服が濡れることは嫌だし、雲に覆われた薄暗い中を歩くことも気分が沈む。肌寒さに首筋を震わせ、私は部室の隅に置き去りとなっていた折り畳み傘を手に取った。傘と部室の鍵を片手に持ち、鞄を肩に掛け直す。

ピアノの音が聴こえてきたのは、その時だった。

親の意向で渋々教室に通っていた私はその旋律を聴いたことがなかった。ピアノの得意な友達に後日曲名を教えてもらったのだった。拙い鼻歌でも伝わる程、私の記憶に焼き付いて色褪せなかった。

ショパン作曲「24の前奏曲」作品28の第15番、変ニ長調。「雨だれ」と呼ばれる曲だった。

窓の外で規則的に落ちる雫。しとどに降る雨音は時に激しく、時に優しい。花弁の散った桜の新緑からぽたりと落ちた粒が、心に落ちて広がるようだった。

階段の踊り場で私は足を止めた。演奏はすぐ上の階にある第二音楽室から聴こえてくるものだろう。普段の授業で使われることはない。手摺を軽く握り締めその場に立ち尽くす。床の一点を見つめ、鼓膜に全神経を集中させる。皮膚を滑り身体の奥まで届くような響き。呼吸を忘れそうになる。その演奏にすっかり耳を奪われてしまったのだった。

やがて音が止み、やって来た静寂の中にじわじわと疑問が浮かび上がった。一体、誰が弾いていたのか。勝手に聴いたことを詫び、素晴らしい演奏だったと伝えたい気もする。しかし知らない上級生が出て来たらと考えると、私の土壌は呆気なく乾き度胸の花が萎れそうになる。どうしたものかと逡巡する私は、ふとクラスの男子が話していたことを思い出した。

この学校には、幽霊が出るらしい。

秀徳高校の校舎はとても歴史を感じる古いものだ、幽霊の一体や二体いても不思議ではない。特に、学校の怪談でも頻出スポットの音楽室には。横開きの扉を音もなく開け、廊下を浮遊し、階段の影からこちらを覗く幽霊。想像した私は震え上がった。忘れかけていた息を大きく吸い込み、足音を殺して走る。途中湿気を帯びた廊下に突っかかったり滑ったりもしたが、靴下のまま来てよかったと思った。追いかけられる気配もない。一人の家路に心地良さは全くなく、寧ろうすら寒かった。それでも、雨だれの音は私の耳から離れなかったのだった。


鷹飛ぶことを習う7月、期末テストが終わり夏服から伸びた腕がうっすら日焼けし始めた頃。私は再び幽霊が奏でるピアノの演奏を聴いた。

その日は部室の鍵当番を任されていた。新入生だろうと持ち回りで順番はやって来る。濃紺が空を包む中、職員室に鍵を返し終えたところで、何気なく引き出しを開けたら無くしていたものが見つかった時のような感覚に襲われた。

幽霊のことは忘れかけていた。そんな怪談実話なわけがないと冷静になって思い直したことと、あれ以来演奏を耳にしていなかったからだ。しかし不意に、あのピアノをまた聴けないだろうかという興味が湧いたのだった。職員室を出た私はそっと元来た道を辿った。廊下は冷房がついておらずじっとりと背中が汗ばむ。部室を通り過ぎ、階段を昇り始めた瞬間。嵐のような音の粒が聴こえてきた。

ベートーヴェンのピアノソナタ第17番、第3楽章。テンペストの名で知られている曲はまさに激しい嵐だった。

風が地面にぶつかり空に舞い上がることを繰り返す。その様はまるで踊っているようでもあった。憤怒にも似た混沌。刹那的な中に強い感情を含んだ演奏は心臓をびりびりと震わせた。肌の表面を剥がされ、吹き飛ばされそうになる。それに抗うように両足に力を入れて私は踊り場に立った。優しい雨だれとはまるで異なる旋律に戸惑い、吃驚し、ただ圧倒されるばかりだった。疾風は6分弱という短い時間で、私の目の前をかき乱して過ぎ去って行った。

嵐の後にも静けさは訪れる。音の無い中でどのぐらい踊り場に佇んでいただろうか、待てど暮らせど私の耳には次の音が聴こえてこない。他の曲を弾き始めるわけでもピアノを閉じて音楽室から出て来るわけでもないし、そもそもいつ第二音楽室へ続くこの階段を昇ったのか、全く足音が聞こえなかった。そう考えるとやっぱり演奏は幽霊によるものではという疑念が首を擡げる。我に返った私は、嵐が過ぎた辺りを更に踏み荒らさないよう慎重に階段を降りた。幽霊が何を考えてテンペストを奏でていたのか、私にはわからなかった。

その後、校門前で長いこと待たせてしまっていた友達には酷く心配された。何もないと笑って答える私の中に残る大きく深い爪痕。身体が焦げるように熱を帯びているのは、茹だる夏の暑さの所為だ。そう思いたかった。


寒蝉鳴く8月、夏休みの暇を持て余したある日のこと。ぐだぐだと日々を送っていた私は思い立って自宅にあったクラシックのCDの蓋を開けた。

家には凡ゆる作曲家の音源が並んでいた。娘の私自身が早々に見切りをつけていたにも関わらず、親が密かに買い揃えていたらしい。目的は違えど役に立つ日が来てよかった。緩い冷風を受けながらCDをプレーヤーに嵌める。ショパンの「24の前奏曲」がハ長調から始まった。

正直、がっかりした。私の心はこれっぽっちも揺さぶられなかった。

首を捻りCDをベートーヴェンに替えてみても結果は変わらなかった。穏やかに滴る雨だれも、荒れ狂うテンペストも。名を知らないピアニストによる奏でより、正体がわからない幽霊のピアノの方が遥かに上手いと思う。記憶の中の調べは美化されているのかもしれないが、それでも踊り場で聴いた曲が忘れられなかったのだった。

また幽霊の演奏を聴くことを望んだものの、それは暫く実現されなかった。少なくとも夏休みの間は。部活動で登校した際は第二音楽室から何の音も鳴らなかったし、基本的に私の所属する部は遅くまで活動に打ち込む系統ではない。日が暮れ出す頃後ろ髪を引かれるように友達と学校を後にすることが常だった。もしかしたら幽霊にも夏休みがあるのかもしれないなんて考えながら、バスケ部の掛け声が漏れる体育館前を横切る。私の夏は微かな苦さを含んで緩やかに過ぎて行った。


山茶始めて開く11月。この頃になると、私は第二音楽室の幽霊によるピアノを何度か聴いていた。

微睡むサティ、甘いシューマン、厳格なバッハ。クラシックに無知なため殆ど例のピアノが得意な友達に教えてもらっている。尋ねる度に理由を問われたが適当に誤魔化していた。あの演奏のことは何となく広めたくなかった。出来ることなら私だけの秘密にしておきたかったのだった。

幽霊の演奏は部活動が終わり暫く時間が経たないと始まらない。ピアノを耳にすることは偶然に縋るようなものだった。いい目が出るまで賽子を振り続けるように、演奏を聴くために私は毎回踊り場に立つ。一度そこで立ち止まったからか上には進めなかった。部活後にそわそわしだしたり一人でゆっくり帰りたがる私を友達は皆訝しんだ。

ある昼休み、私は昨日聴いた曲を回想しながら廊下を歩いていた。ドビュッシーの「夢」。儚い望みを抱いて階段を昇りかけたところで静かに音が降ってきたのだった。それだけでも嬉しかったし、日々訪れが早くなる夕暮れに包まれて聴く美しい旋律に胸がすく思いがした。清らかで本当に夢の中にいる心地。それまでおどろおどろしいイメージしかなかった存在の幽霊があんなに優しいピアノを弾くなんて意外だ、なんて考えて隣のクラスの前を通り過ぎる。

瞬間、笑い声混じりに名を呼ばれた。

「あ、苗字苗字ー!!」

歩き続けようとした足を後退させ教室の中を覗き込む。窓側にいた男子が私の方へと近付いて来た。片手を小さく左右に振って問う。どうしたの、高尾くん。このクラスの友達に用があった時に話をして以来仲良くなったひとだった。

「苗字、三角巾余ってたりしちゃう?
よかったら真ちゃんにさー、」
「高尾!!」

目尻に浮かんだ涙を拭う高尾くんを追い掛けるように物凄い勢いでこちらへ向かって来るひとがいた。頬は紅潮しているのにこめかみには青筋が浮かんでいる。眼鏡越しのつり上がったまなこに私は怯んだ。固く握り締められた拳から何やら白い布がはみ出ている。私よりも、高尾くんよりも背が高い緑の髪の男子。何度か廊下ですれ違ってはいたものの、こうして向かい合うのは初めてだった。

この学年の首席で中学時代からキセキの世代と呼ばれるバスケ部エース。文武両道、眉目秀麗にして変人。緑間真太郎くんについては専ら噂で人となりを聞いていた。

曰く、おは朝占いのラッキーアイテムが三角巾だったため腕を吊るす布を持って来たもののどうにも運が補正されず良くないことが起きる。高尾くんに相談したところ調理実習の時に頭を覆う方の三角巾が正しいのではという話になったらしい。そこまでラッキーアイテムに拘る意味がわからないが、大真面目な緑間くんに予備の三角巾を部室から取ってこようかと提案する。すると緑間くんも高尾くんも着いて行くと言ったため、校内を二人に挟まれるように歩くこととなってしまったのだった。

強豪バスケ部のレギュラー、しかも人目を引く彼らと並ぶことは実に居た堪れない。特に今まで関わりがなかった緑間くんとは。高尾くんに今度作るお菓子ちょうだいと強請られながら部室へ赴き、割り当てられている棚のスペースから三角巾を取り出した。男子が着けても無難なベージュのチェック柄。差し出そうとすると、緑間くんが不思議そうに私に尋ねた。

「…調理部は、ここの教室を使っているのか」

私が所属する調理部は言わずもがな家庭科室が活動場所だ。部室替わりの準備室も第二音楽室のすぐ下の階にある。首肯すれば、三角巾を頭に巻く緑間くんを想像したのか高尾くんがまたお腹を抱えていた。

「真ちゃん、苗字がいなかったら持って来た方の三角巾マジで使うことになってたかもねー」
「やめるのだよ」

冗談でも言うな、と冷たく言い放った緑間くんの手に三角巾が渡る。噂通りテーピングが施された指は長く骨張っていてすごく綺麗だ。バスケよりも音楽をやっていそうな手だと思った。


水泉動く1月には黒いタイツとダッフルコートが欠かせなくなった。冬の課題だったグループ学習が終わらず、放課後何人かで残った日。調べ物を纏めてから皆と別れ、私は部室の方向へと足を進めた。

ただ、聴ければいいなと思っていた。今日は聴けるかもしれないとも漠然と思っていた。すっかり暗くなった校舎は薄気味悪いのにどこか浮き足立ってしまう。部室の方には目もくれず第二音楽室へ続く階段へ。予想通りピアノの低音が鼓膜に流れ込んできた。口元が弧を描く。しかし、ゆったりとした旋律が奏でられた途端私は息を呑んだ。

ラフマニノフ作曲、幻想的小品集作品3第1曲。エレジー。

すごく、ドラマチックな曲だ。華やかで、でも、物悲しい。随分と昔の出来事を追想しているようで、つい今しがた感じた哀切を表しているようでもある。慟哭と嗚咽が繰り返される中に甘美が潜んでいた。過去を懐かしみ、そこに戻れないことを嘆く、痛々しい程の演奏だった。

身が竦む。一人でに涙が零れそうになる。足元から這い上がる冷気にも、上階から聴こえる調べにも肌が粟立った。こんなに切なさを露わにした曲を聴くのは初めてだった。途方もなく悲しいことがあったかのような演奏に私は衝撃を受けた。一体、幽霊に何があったのだろう。

いつしかピアノを聴くことが楽しみになっていた。恐らく聴衆は私しかいない、不定期で気紛れな演奏会。選曲が楽しげなものだったら私も嬉しくなったし、静かな曲なら気分が落ち着いた。寂しい曲を聴けば、私だって寂しくなる。幽霊が何を考えてエレジーを奏でていたのか、私にはわからなかった。それでも、幽霊のことが気に掛かって仕方がなかった。

だから数日後、高尾くんにバレンタインの話を振られた時も頭の中では悲歌が響いていたのだった。

「だって苗字調理部だろー、うんまいチョコ作ってオレにちょうだいよ」

語尾にハートでも付きそうな口調に私は曖昧に笑ってみせた。前の席に腰掛ける高尾くんは完全にこのクラスに馴染んでいる。

バレンタインは来月に迫っていた。部活で作るメニューについても真剣に議論が交わされている。高尾くんには友チョコを分けてあげるよう伝えると、ひっでえ本命じゃねーのと言いながら満更でもなさそうだ。しかし目の前の尖らせた口を見ながら、私は何とも酔狂なことを考えていた。

第二音楽室の幽霊にチョコをあげられないか、と。


魚氷に上がる2月。バレンタイン当日、私は初めて第二音楽室がある階へと降り立った。

前日の部活動で作ったマカロンにはチョコクリームを挟んであった。高尾くんにあげたフォンダンショコラとはまた別に作ったもの。踊り場で足が止まりかけたが、意を決して階段を折り返す。ひっそりとした廊下を進み、突き当たりにある扉をゆっくり開けた。

人の気配はない。本当に演奏が幽霊によるものなら姿がなくて当然だ。恐れはなかった。様々な感情が迸るピアノは余程人間らしいし、だからこそ惹かれて止まないのだ。幽霊のピアノに。幽霊の内面に。私も自分の思いに突き動かされるようにして埃っぽい部屋へと足を踏み入れる。

電気は点けず、窓の外の月明かり頼りにグランドピアノの前へ。鈍く光を跳ね返す大きな箱が神聖なものに見える。ピアノの上に包みを置いた私はすぐに背を向けた。それだけで十分だった。これ以上近付いてはならない気がした。ふうとひとつ息を吐き足早にここから引き返そうとする。ただ、伝えられればよかったのだった。聴き手がいることと、それと、

「やはり、お前だったのか」

第二音楽室の入り口に、人影が見えた。

眼鏡越しのまなこがじっと私を見据えている。扉に当たりそうなぐらい高い位置にある頭の先。足が竦む。指先の感覚が失われそうだ。どうして、と問う声が掠れていた。人影が小さく鼻を鳴らす。そうして語り出された真実は、私にとって驚きの連続だった。

彼は元々小さい頃からピアノを習っていて、バスケを始めたのはそれよりも後だったこと。部活のミーティングが早く終わった日に、ここに弾きに来ていたこと。ほとんど使われていない第二音楽室で、季節の移ろいや己の感情と向き合うように演奏していたこと。夏頃、遠ざかる足音を耳に留めたことで聴いている人がいると知ったこと。階下の教室が閉まる音にも気が付いていたこと。真近で聴いているわけでもない、姿を決して現さず聴衆はまるで幽霊のようだと思っていたこと。

「幽霊など実際にいるわけがない、この高校の…調理部の人間だと、お前の話を聞いて以来当たりをつけていた。しかし、オレのピアノを聴いている奴がオレのピアノをどう思うか、少し気になったのだよ」

いつしか、その存在に聴かせるように曲を弾いていた。ピアノが上手いと思われることは勿論、自分が感じていることを演奏を通して理解しているだろうかと考えながら。正体のわからない幽霊を、意識するようになっていた。

金縛りにあったようだ。私の身体はぴくりとも動かなくなる。浅く速く漏れる呼吸。深緑の髪が月光に照らされる。相手が瞬く度、長い睫毛が動く音が聞こえてくるようだった。

「…緑間、くん」
「ピアノ、聴くか」

どのくらいの間そうしていただろうか、渇ききった喉で私は漸く声を発した。それが呼び水となったのか緑間くんがすたすたとピアノに歩み寄る。近付く距離に比例するように速くなる心音。私の隣に立ちピアノの重たい蓋を易々と開ける。長く骨張っていて、バスケよりも音楽をやっていそうな綺麗な手。

ピアノだけを通して緑間くんの全てを知ることは出来ないだろうし、触れるなんてきっとずっと先のことだろう。それでもこうやって、ひとりの人と人として、向き合っていくことから私達は始まっていく。そんな気がした。

緑間くんがピアノの上の箱をちらと見てから、鍵盤の上に指を置いた。


20130214/title ukiwa

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