いやだいやだ、いやだ。そんなネガティブな感情を心の内に押し込めていたら、いつしか私はぱっくりと口を閉じた貝殻のようになってしまった。
踏み固められた足元は砂浜に似ていた。関東では珍しく大雪が降ったのは数日前のこと、私が歩く一直線の道には沢山の人の靴の裏で茶色く染まった雪が溶け残っている。住宅地に規則正しく建ち並ぶ家は、雪解けをもたらす太陽を遮断していた。
夕と夜のあわいに、同じ形の影がいくつも差す中を歩いていた。真っ直ぐな道のずっと先に私の家はある。車の両輪の跡の間に残った雪の上を進むことは砂浜の終わりを見つけに行っているようなものだった。ただ、この道には打ち上げられた貝殻の欠片が埋まっていない。一歩進む度凍えが這い登ってきそうな帰路、昔ここを一緒に歩いた幼馴染を私はふと思い出した。

「…涼太」

今でこそキセリョなんて略称で呼ばれることが多い黄瀬涼太は、モデル兼海常高校バスケ部エース、兼私の幼馴染だ。小さな頃は天使のような顔を涙で歪めたり笑みでくしゃくしゃにしながら私と並んで歩いていたのに、手が届かない存在になってしまった。名声、栄光、人気に地位、多くのものを手に入れた彼はいつしか遠くへ行ってしまったのだった。
私が今まで涼太と一緒にいられたのは、ただ家が近所という偶然に恵まれただけだ。だから多くを望んではいけないと言い聞かせてきた。遠くに行かないでと願っても、駄々をこねたところでどうしようもない。
名前の呼び方を変えた。必要以上話さず、自分から近付かないようにした。私は海に沈む貝になって自分の身を守ってきたのだった。目を逸らす度、言いたいことを飲み込む度、心はひび割れそうになった。それでもいつか、殻の中に乳白色が輝く日を夢見ていた。
雪はもう足跡もつかないくらい固くなっている。ローファーが滑りそうだ。子どもみたいに両腕でバランスを取りながら、もう一度、名前を呼んでみる。

「涼太、」
「どうしたんスか、名前」

突然、背中に降った声にびくりとした。肩を震わせて私は立ち止まる。足音に全く気が付かなかった。数歩後ろの存在に心臓がざわめく。恐る恐るゆっくり振り返ると、視界の端で金色が光った。今度は声に出さずに呟く。涼太。彼が小さく口角を上げた。

「…っき、きせく、」
「今帰りっスか?」

呼び掛けを遮った涼太は私の方へと歩み寄ってきた。自然とそのにこやかな顔を見上げる形になる。昔は同じ目線で凡ゆるものを見聞きしてきたのに、今はこんなにも身長差がある。この道だって何度も一緒に歩いた筈なのに、知らない場所に放り出された心細さを感じてしまう。涼太が私の知らない人みたいだ。そのぐらい二人になるのが久しぶりで、どうしたらいいかわからない。

「部活、」
「今日はオフっスよ」
「…仕事、」
「撮影も休み」
「な、なんで」
「それは…なんでって言われても困るっス」

そうじゃなくてどうして、一緒に帰ろうとするの。苦笑を浮かべる涼太を前に私は口をつぐんだ。言葉の羅列が頭の中で渦巻く。帰るっスか、と涼太が遂に隣に並んだ。たったそれだけで。嬉しいと思う程幼馴染を好きなのだと思い知らされる。好きだと思う程幼馴染の関係から抜け出したいと思ってしまう。欲張りだ。そんな自分も、いやだ。

「昔はよくこうやって一緒に帰ったっスね」
「う、ん」

歩幅を合わせて緩い調子で歩く涼太の声色はとても優しい。穏やかな表情をしていることならよくわかる。それでも私は隣を見られず俯く。終わりのない砂浜の上に私のような貝殻を探すしかない。「でも、」と涼太が続けた。また肩が上下する。

「もう昔とは違うっス」
「…」
「いつから名前は遠くに行っちゃったんスか?」

弱々しい口調とは裏腹に、涼太の言葉は私を締め付ける。がんじがらめにして、唇をこじ開けようとする。聳える家の影でさえ私を追い詰めるようだった。
学校での涼太は私を見つける度に嬉しそうに手を振っていた。何かあれば教室までやって来て楽しげに話をしていたし、登下校もお昼も幾度となく誘われた。その度に私は、涼太を取り巻く女の子達の視線に怯えた。多くのものを手に入れた涼太の眩しさに慄いた。涼太は変わらずここにいる。貝になった私が、暗い水底という遠くへ行ってしまったのだろうか。

「そ…れは、涼太だって」
「オレはずっと名前の隣を歩いてきたつもりなのに、名前はオレから離れていこうとしてるよね」
「ちが、」

大きな手が私の腕を掬う。私達は立ち止まってお互いの方へと向き合った。身体の中心は熱を発しているのに、指先は冷えていく。まだ、顔を上げられない。思わず視線を逸らして通ってきた道を目で辿る。そこには確かにあった。うっすらとした二人分の足の形が。見えなくても、一緒に歩いてきた軌跡が。恋心を含んだかたちをした足跡が。

「そんなの、オレはいやだ。オレは名前とこの先もずっと一緒にいたい。だから、遠くに行かないでよ」

大切だから。涼太の眉がきゅうと寄る気配。私の腕を掴む掌にじわじわと力がこもる。目線が辺りをうろつく。左右を交互に見れば、片側には私達の過去がある。そしてもう一方には、まだまっさらな未来が。
「あのね、」息を吸い込んで顔を上げる。溶けかけた雪が視界の端で光った。寒さはもう感じなかった。それでもここは砂浜じゃない。二人で何度も歩いた道だ。貝殻なんて、あるわけない。
私の話を最後まで聞いた涼太は、顔を笑みでくしゃくしゃにして私を抱き締めた。

20130118/海辺よりadulterさまへ提出

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