「大きくなったら、僕の」。まだ変声前のボーイソプラノが頭の中で響き、中途半端に途切れたところで目が覚めた。背後の壁に凭れていた肩が凝り固まっている。肩甲骨に力を込め筋肉を解そうとする緑間真太郎の目の前に広がる光景は、混沌。そうとしか表現出来なかった。
テレビから流れるタレント達の笑い声と、それにも増して強烈な喧騒。年始恒例の親戚同士の集まりは、唯一の高校生を置き去りにして盛り上がる一方だった。幼い頃はかるたの札や百科事典を眺めていればそれでよかった。しかし今この場で爪の手入れをしたりボールを持ち出すなど以ての外。沢山いすぎて自分との繋がりをいちいち覚えていられない酔っ払い達の話を聞く気にもなれず、更に年下の世代と遊ぶわけでもない。バスケへの気持ちを持て余し退屈そうに緑間が辺りを見回せば、斜め向かい、輪の中でコップを持ち曖昧な笑みを浮かべていた彼女と視線がかち合う。一瞬で輝きを変えた瞳に、転寝後の緩やかだった鼓動が突如として跳ねた。

「あ、真太郎くんが起きた。お汁粉食べる?」

彼女、名前は繋がりがわからない親戚の内の一人だった。流行りに乗った髪型や服装の変遷を毎年この時期見てきた記憶はある。ただ、緑間の中では祖母と叔母達に挟まれるようにして小豆を煮ていた後姿が一番鮮明だった。緑間家の正月は、どういうわけか雑煮と共に汁粉が供される。老いた祖母と年始ぐらい楽をしたい叔母達の思惑により、何年か前から名前が汁粉作りを一手に引き受けていた。

「はい、どうぞ。今年も真太郎くんの口に合えばいいんだけど」

酒と煙草に混じり、微かな甘い香りが緑間の鼻孔に届く。椀には蘇芳に似た鮮やかな色の中に小さな餅がみっつ散りばめられていた。水飴を混ぜてとろみを足した汁粉を火傷しないようにゆっくり嚥下する。緑間に椀を渡した名前はそのまま彼の隣に腰を下ろした。ちらりとその横顔を盗み見てから、気取られる前に箸を転がす。鈍感な振りをするしかなかった。緑間を自らで出来た死角に入れるように座る名前の優しさなど知らない顔で小豆に餅を絡める。喉に焼け付く甘ったるさ。見えない位置にいる親戚が名前を茶化す。そろそろ、結婚などしたらどうか。

「ええ?まだ早くないですか?」
「早いに越したことないわよー、ねえ?」
「よしわかった、バツ1でよかったら俺と」
「伯父さんと!?」

卑下た笑いが起こる。こんな時にも、こんな時こそ人事を尽くすべきだと緑間は椀の中を只管見つめた。氷のように揺るがない表情は周囲の会話を遮断しているようでもある。決して悪い人達ではない。しかしこのような調子で話を振られても困るだけだった。小豆の旨さと隣で口に手を当てて笑う名前に氷を溶かされまいと緑間はテーブルの上の柴漬けに箸を伸ばした。塩気の効いたそれをぱりりと奥歯で砕いた音に混じり、「もう、そんなこと言うならお酒買い足してきちゃいますよ?」という声が聞こえてくる。はっとして緑間が顔を上げると既に名前は腰を浮かせていた。逃げるつもりか。空のビール瓶、へこんだチューハイの缶。蜜柑の皮が散らばっている。名前が小さく彼の名を呼んだ。

「行こう」
「え」
「一升瓶、持ってもらってもいい?」

ワンピースから覗く膝は肌色が透ける薄さのタイツに覆われている。視線を上へやれば緑間を優しく見据える彼女と目が合った。その途中気が付いた白く細い手は、今しがた飲み込んだ適度な甘味の汁粉を作り出したものだ。その、こちらに向けた掌に、

「…はい」

触れることなく、立ち上がる。

***

中学に上がる前に身長は追い越していた。彼女が着ていたセーラー服と対を成す制服を身に纏うことにも慣れた。少しは世の中を知るようになった。それでも、一緒に酔うことはまだ出来ない。同じコートに立ててすらいなかった。試合が始まるまでの間は、左の指に巻いたテーピングが守っている。年の離れた親戚にどうしようもない思いを抱いている彼から名前を守っている。どうしようもない思いにじりじりと焦げ付く彼自身を、守っている。

「もうさ、疲れちゃうよね。おじさんおばさんの中にいるのも」

睦月の空は灰色に覆われていた。近くのスーパーまで15分程度の道を名前と緑間は歩く。付かず離れずの距離。ワインやら日本酒やら勧められるままに随分と飲んでいたようだが彼女の足取りはふらついていなかった。「友達と遊びたいよね、初詣とか初売りとか」と誰に言うでもなく呟く名前。羽織ったコートも脚を隠すブーツも上等なものだとわかる。自分で得た金で買ったものか、或いは。
会話が途切れる。祖父母の家を囲む住宅地は静けさに満ちていた。互いの靴音が重なり、乱れ、また同じリズムを奏でる。先の騒ぎとどちらの方が居た堪れないだろうと考えながら、緑間は頭ふたつ分は下にある名前のつむじを盗み見た。体良く外へと連れ出してくれた彼女に少しでも近付きたい。それなのに。

「…結婚、したいと思っているんですか」
「…え?」

口をついて出た言葉は最悪なものだった。こんなタイミングで尋ねるなんて人事を尽くせていないと緑間は内心舌打ちする。手触りの良さそうなマフラーの間から白がふわりと浮かび、すぐに儚く消えた。名前が緑間を見上げて冷たい息を吐く。消えてしまう。淡い希望も、焦燥感も、冬の空気に攫われそうになる。コートの上に立てていない緑間は、シュートを打つことすら叶わない。煮立てた小豆の皮のように割れた心は、甘ったるい蘇芳の中に漂い包まれば修復出来るだろうか。

「…覚えてないよね、やっぱり」

軽くマスカラを乗せた睫毛が伏せられる。緑間には名前の瞳が何色をしているかわからない。財布を持つ両の手は背中に組まれている。正月を過ぎたら毎年、口寂しさを紛らわすように缶入りの汁粉を飲んできた。しかしこの手がないと、この手が作り出す味でないと駄目だった。彼女に与えられる甘味に、緑間は侵食されていた。

「何を、ですか」
「多分ね、私が大学に入った年だからー…」

名前が指折り数えながら足取りを緩める。子どもが頑張って歩く速度と同じぐらいの歩幅。緑間はそれに素直に従う。彼女の歩みに合わせていたつもりだった。出来るだけ長い時間並んで歩いていたかった。ぴんと立った指先が再び折られたところで名前が真っ直ぐ隣を仰ぐ。一切酔いの窺えない顔を度付きの硝子を隔てないと具に見られないことが恨めしい。彼女の鼻先と頬の赤みに、緑間の思考は記憶の中の過去と午睡で見た夢に遡る。木箆片手に大鍋に向かい合う背中。その年から彼女は一人で小豆を煮て、祖母の及第点をもらっていた。

「真太郎くんさ、私が進学するから実家を出るって話になった時こう言ったんだよね」

あの頃の緑間は、春になったら実家から離れた大学へ通うため一人暮らしを始めるという名前と二度と会えないのではないかと打ち拉がれていた。隣県との距離が何光年もあるかのような錯覚はまだ狭い世界で過ごしていた時代ならではのものだ。正月休みに祖父母の家に赴いた際そのことを聞かされ、遣る瀬無い気持ちで彼は仏頂面で汁粉を啜っていた。離れていかないでほしいと、置いていかないでほしいと願っていた。それに気付いた彼女が"毎年ここには来るから"と柔らかな笑みを湛え頭の天辺に手を当てる。反射的にその手を掴んでいた。人より早い成長期のお陰か名前の手をすっぽり包めた自らのそれに興奮したことを覚えている。
忘れられていると思っていた。その場の勢いだけであんなことを言えた過去は今となっては消し去りたいが、同時になかったことにもしたくない。彼女の手を握り締めた緑間はこう言った。「大きくなったら、僕のお嫁さんになるのだよ」。

「………待ってるんだけど」

酔ってなどいない。飲んでいないのだから酔える訳がない。それなのに、足元が覚束ない。名前は繋がりがわからない程遠い親戚の一人だが、自分が結婚相手に名乗り出ても許される位置にいることを緑間は遥かに昔から知っていた。試合が始まる。コートの脇に立つ時のような、何とも言えない高揚感に包まれる。一瞬白色に浮かんだ吐息が、熱を含んでいた。
新年を迎えた世界はまだ何の色にも染まっていない。これから一年を通して起こるだろうあらゆる出来事に彩られるのを待っている。
テーピングを外して彼女に触れるまで、あと少し。

20130103/title

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