おふろかして。そのたった六文字を適切な漢字に変換出来ないことに、奥村雪男は戸惑いを隠せずにいた。
パソコンを長時間使用することが続くと、目の前にキーボードがなくとも指が動きそうになる。脳内に浮かぶモニターに文字を入力し、変換してからエンターキーを押す。それすら行えない程疲労が溜まっているのか。無理もない、通常の任務に加え塾の講義をこなしそれに着いていけない兄のために教材をこさえ、学業の方でも冬季休暇中の課題は既に終わらせた。少し予定を詰め込み過ぎたかもしれない。雪男は俄かに感じた目の奥の痛みを解そうと眼鏡に手をかける。しかしそれを遮るような「だーかーらぁー」という声が耳朶を打った。

「お風呂貸して、旧男子寮の」
「…あの、意味がわからないのですが」

眼鏡がずれる。鼻筋に引っ掛かったブリッジをすかさず直し、彼は眼前の少女へ視線を合わせた。苗字名前。彼女の表情は蜜の詰まった林檎を思わせる笑みを浮かべる杜山しえみとは似ても似つかなかった。狐のような目を吊り上げてつんけんした態度を取る神木出雲とも、扇情的な二重瞼と厚い唇を持つ霧隠シュラとも違っていた。一部の女子生徒が雪男に向ける媚びた顔をしているわけでもなかった。名前とはいつから、何のきっかけがあって会話を交わすようになったのか。雪男ははっきり覚えていない。

「だって女子寮の浴場いつ行っても人がいるんだもん。そっち貸し切りみたいなもんじゃん」

名前が首を横に傾けると長い髪が肩から零れ落ちた。一度も染色したことのない、真っ直ぐ下ろされた黒髪。しかし彼女が「染めたりパーマかけると手間かかるし面倒だから」この髪型にしていることを雪男は知っている。

「お断りします」
「なんで」
「男子寮の浴場だからです。あなたは女性でしょう」
「けち」
「…何とでも言ってください」
「じゃあ燐に頼んでくる」
「…どうして兄さんが出てくるんだ…」

目の奥にあった痛みが頭の芯まで広がる。雪男は言葉にならない思いを湿った呼気に乗せて吐き出した。名前とは彼の兄を介して知り合ったことをふと思い出す。もとより気が合う二人のことだ、燐にこのことを話したら二つ返事で承るだろう。どうして兄さんが出てくるんだ。色々な意味で。「じゃ、来週行くから」と言い残し名前は踵を返した。長い髪が揺れ、飛沫のように跳ね、また背中へと戻る。終業式を迎えた学園の廊下に雪男の溜息が溶けて消えていった。

+ + + + +

祓魔師は人員不足な上、年中無休の職業である。特殊で厳しい訓練を受けた一部の者しか資格を得られないため、高校生だろうと任務に駆り出される。人命と秩序を守る職。それに付随した雑務、後進の育成、雪男の一日を図表化したら空き時間が極端に少ないスケジュールが出来上がるだろう。しかし彼はそんなすし詰めの予定が嫌いではなかった。寧ろ何もしないでいることの方が苦手である。手帳に何と記せばいいのかわからない、本当に手持ち無沙汰な時間は不安に駆られるものでしかなかった。それは決して息抜きの仕方を忘れているわけではないと雪男は思っている。
翌週、旧男子寮を訪れた名前を雪男は玄関にて出迎えた。寒い中を歩いて来た彼女の頬は花が咲いたように赤みを帯びる。冷気は容赦無く雪男のいるところまで入り込んできた。外と寮内の温度差で眼鏡が曇る。

「お湯張ってるー?」

何てことないように片手を上げる名前に雪男は気が遠くなりかける。一方の手には風呂の中で使うシャンプーやリンス、その後のスキンケア用品が纏められていた。「今日17時半に行く」というメールを午前中に受け取ってから浴場の片付けは抜かりなく済ませたつもりである。年末の大掃除だと言い聞かせ、広々とした浴槽もタイルも洗い場も脱衣所も綺麗にした。燻る感情を発散するかのように。
油を差すよう訴えかける扉を名前が閉めたことで、寒々しい屋外と暖かな建物内が隔てられた。12月のこの時間は既に漆黒に支配されている。見慣れない私服、夜の始まる刻、自分のテリトリー。秘め事のようで雪男は新鮮な心地になる。浴場へと案内しながら彼は名前に疑問に思ったことを問うた。

「…帰省しないんですか」
「帰省?あーうん、旅費の節約」

名前は二、三度目を瞬かせた後からからと笑い飛ばした。正十字学園には地方出身者が多いが、彼女もその一人だった。温泉で有名な土地から進学して来たことも同部屋の女子は帰省するためさみしいと零していたことも雪男は知っている。知るということは満たされるようで、同時に底なしの欲が沸き起こる。
じゃあね、と脱衣所へ姿を消す名前を雪男は暖簾の前で見送る。木床と足の裏が貼り付いたように動かない。すぐ近くで感じる衣擦れの気配に二の腕がふるりと震えた。旧男子寮の行き届かない暖房。どのくらいそうしていただろうか、雪男は冷え切った足を動かして元来た廊下を戻って行った。

+ + + + +

「ありがとね、さっぱりした。あんな広いお風呂一人で使うなんて初めてだし、なんか面白かった」

名前が雪男の部屋を訪ねたのはそれからおよそ一時間後のことだった。「部屋にいます」と送ったメールは無事に開封されたらしい。彼の双子の兄、燐は塾で補習を受けているためこの建物にはいない。そのことが雪男をほっとさせ、しかし焦らせもする。
化粧っ気のない肌は化粧水と乳液で念入りにケアされて照明に光っていた。頭からタオルを被った名前は雪男の部屋を物珍しそうに見回している。白い布と黒い髪のコントラスト。間に覗く首筋から匂い立つ香りが彼の座るデスクまで届きそうだった。作業を中断し振り返っていた雪男は居た堪れなさに目を逸らす。すると、視界に雫が零れそうな毛先が飛び込んできた。

「名前さん、床濡らさないでください」
「わ、ほんとだ。ドライヤーある?」

窘めると名前は下ろした毛束を摘みのんびりと声を発した。だらだら垂れる水で服にも染みが出来ている。まるで幼い子どもである。雪男は何度目かわからない溜息を吐いて立ち上がった。男二人で住む寮にドライヤーなどない。「貸してください」。きょとんとした名前を冬になり敷いた毛の長いラグの上に座らせる。そして自らも向かい合うように膝立ちになった。風呂を貸してほしいなんて、些細でも理解が出来ない頼みをきく時点でもうわかっていた。

「これじゃ乾かないに決まってるだろう…」

頭に置かれたパイル地の端を引っ張り、毛先の水分を吸い取らせる。不慣れな手付きで髪をタオルに挟み込み、ぽんぽんと軽く叩く。普段名前の背中を隠す黒は、今はカーテンのように彼女の顔の前を覆っていた。適度に着崩した制服とも違うラフな格好。胡座を掻く名前は師走だというのに素足である。彼女は先程から声を上げず、借りてきた猫のように大人しくしていた。至近距離で彼女を見下ろすと随分と肩が薄いことがわかる。雪男はタオルを裏返して髪の根元を乾かし始めた。水が染み込んだ布に触れているだけで指先が冷えていく。名前の髪は乾くまでにもう暫く時間がかかりそうなくらい濡れていた。もしかして洗い髪のまま部屋へ来たのだろうか。

「いやあ、髪乾かす前にメール見ちゃったからさ、」
「………」

人の気も知らないで。雪男の中に小さな雫が落ちて飛沫となる。何を恐れているのか、と心の中で独りごちる。志摩辺りならフラグがどうのこうのと喜ぶのだろう。もうとっくにわかっていた。彼女の髪に触れたいと望んでいたことを。カーテンを開けたところにある景色に手を伸ばしたいと、胸が疼くことを。しかし、垣間見えた名前の表情はもう少し先でもいいと思わせるものだった。もう少し、この距離を、この時間を。

「ん、何?」
「…何でもありません」

無意識のうちに思考が言葉となっていたのだろうか、名前がゆっくりと首を傾けた。雪男が直ぐ様頭を振れば彼女はすぐにまた目を細め心地良さそうに微笑む。彼らの間に会話はない。部屋を緩く暖める空調により彼女の髪から水分が飛んでいく。うねりも跳ねもない、特別なことをしなくても素のままで美しい髪。絹のような真っ直ぐな艶髪を自らの手で紡いだことに雪男は言いようのない安らぎを覚えた。スケジュールのどのカテゴリにも分類されない、静かで穏やかで不思議な時間。仕事でも勉強でもない、適切な単語を入力しエンターキーを押せない時間を名前がもたらす。勿論そんな時間が無限にはないことを雪男もわかっている。だからこそ、どうしようもなく胸が凪ぎながら疼くのかもしれない。

20121227/title 47.

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