13:20




澄んだような空気をまとう、ひとだった。

髪はいつでも軽やかに靡いていて、それを見ているだけで胸が早鐘を打つ。
常日頃から花壇を手入れしていると言うのに、整った爪や、ほっそりとした指先。
テニスボールを持つ彼の表情は凛々しく、息が詰まりそうになるほど、きれいだ。



「ねえ、柳はさ……」



それが恋だと気付いたのは、3年生のころだろうか。
斜め前の席の柳くんと、一緒のクラスになってからだ。
彼はよく真田くんを連れて、柳くんに会いにわたしのクラスに来る。

未だ声変わりしていないのか、透明感のある声は耳によく馴染む。
目で追ってしまう、藍色。
整った顔立ちで朗らかに笑う彼の瞳は、アイスブルー。


――彼には、好きな人がいるらしい。
どんなに美しい顔立ちをしていたって、年頃の男の子なのだから、当たり前と言えば当たり前。
ただ、花に微笑みかける彼を、すこし離れた場所で見ていたい。欲を言えば、近付きたい。


だからと言って、こんな急展開は望んでいなかったのだけれど。







16:32




「あ、」




登っていた階段の5段上からふらりと落ちてきた男子生徒。俯いていたせいで顔も容姿もよく見ていなかったけれど、随分細身の人で。

濃い緑色の制服を受け止めようと、慌てて手を伸ばす。左手は手すり、右手は彼の身体。
ぎゅう、と抱え込んで瞳を瞑ると、衝撃は少し弱まる。
その身体がずしりと重くなるのを耐えていれば、真田くんが切羽詰った表情で手を伸ばし、わたしの肩を支えてくれた。

…あ、あぶない、わたしまで落ちるところだった…。


「真田くん、ありがとう」
「いや…!」


よかった、と真田くんが小さく呟いて、安堵の息をつく。
それにしてもこの人、花の匂いがするなぁ。右手で抱き寄せたひとの顔に視線を向ける。
わたしの胸の中には、見知った顔と、藍色があった。




「…幸村くん…」




落ちてきたのは、まさしくわたしが恋していた、幸村精市くんだったのだ。







16:48




貧血らしい幸村くんを保健室のベッドに寝かせ、膝裏に枕を置く。
たしか、頭が心臓の高さより低くなるようにするといいんだっけ。
頭の中で色々な知識を巡らせていると、柳くんが感嘆したように「ふむ」と呟いた。



「ずいぶん処置が手馴れているな」
「うん、えっと…昔読んだ本に書いてあって」



あと、ベルトとかYシャツのボタンとか、緩めてあげてね。と二人に頼む。
さすがに、わたしじゃ駄目だろうし…何より、恥ずかしい。

真田くんと柳くんは頷いてから、眠る幸村くんの首を支えて服装を緩め始めた。
安定した呼吸が聞こえる。顔色も、さっきよりは良くなってきたみたい。



「とりあえず、これで応急処置はできたと思うよ」
「ああ、ありがとう。助かった」



柳くんがそう答えて、隣にいた真田くんは深く頭を下げた。
真っ直ぐ向けられた感謝の気持ちにどぎまぎしながら、保健室のカーテンを引く。
慌てていたから気付かなかったけれど、先生はいないみたいだ。出張かな?

きょろきょろと辺りを見回してから、とりあえず幸村くんは二人がなんとかしてくれるだろうと思い、ドアに向かう。が、それを、思いきり阻まれた。
高身長な上なにを考えているかわからない冷静な顔立ちは、真正面にあると正直こわい。



「……や、やなぎくん?」
「…すまないが、このまま様子を見ていてくれないだろうか」
「え」
「蓮二?なぜ、」
「弦一郎、俺達はこれから部活だろう。…頼んだぞ」
「いや、ちょっと…!」



強引な柳くんを止めることもできず、保健室のドアは閉まった。
真田くんの困惑した顔が瞼に焼き付いている。…なんなんだろう、柳くんは…。あんな人だったっけ。
はあああ、と長い溜息を零してから仕方なしにパイプ椅子に腰掛ける。幸運というか、不幸というか、わたしは部活に入っていないのだ。つまり放課後は暇人なわけで。


恋焦がれている相手とは言え、わたしは彼を見ていたいだけで――話をしたいとは思っていない。
…まあ、この状況は"見ている"に入るのだけれど。







17:00




しんとした保健室が嫌になってきた。でも、頼まれたことは簡単に投げ出せない。
なんとなく掴んだ脱脂綿を手の中でちぎりながら、幸村くんが起きるのを待つ。本音を言えば早く起きてもらって、この状況から解放されたい。

カーテンを挟んだ向こうに、好きなひとがいる。幸村くんがいる。




「ん、」




ぽつりと漏れた音。わたしの声と違った、テノールボイス。
彼は起きたのだろうか。




「あ、あのっ」
「…誰だい?」
「えっ、と…柳くんと同じクラスの、なまえです」
「ああ、なまえさん。よく話を聞いているよ」



…なんの話だろう。聞いてみたくなったけれど、問いかけなかった。

幸村くんと会話していることにひどく緊張しながら、言葉を紡ぐ。喉がからからで、痛い。
ちぎっていた脱脂綿をごみ箱に捨てて、掠れそうになる声が聞こえやすいように、カーテンの近くへ立った。



「柳くんと真田くん、部活で……わたしは入ってないから、その、幸村くんの様子を」
「頼まれたんだね」
「そういうこと、です」
「じゃあ、すまないけれど、俺の身体を起こしてもらってもいいかな」
「………う、うん」




申し訳無さそうな声で頼まれた願いに言葉が詰まった。
僅かな沈黙のあと、頷いて、それから恐る恐るカーテンを開ける。

真っ白なシーツの上に散らばった藍色の髪は、まるで、どこかの絵画のようだ。「ごめんね」と苦笑いする幸村くんに、見惚れてしまう。

油断をすれば唇から飛び出してしまいそうな心臓を必死に抑えつけながら、彼の背中にそうっと指先を近づけた。



瞬間。
その指を絡めとられ、息さえもできないまま、わたしの視界は反転する。





「っや、ゆ、幸村くん」
「なまえ」
「、名前…!」
「真っ赤だね。緊張してるの?」
「おねがい待って、わ、わたし、よくわかんな」
「わからなくて、いいよ」



幸村くんの吐息がわたしの鼻先にかかって、背筋が粟立った。ぎし、とベッドが軋む音がする。
なんで押し倒されてるのとか、どうして呼び捨てなのとか、幸村くんは貧血じゃなかったのとか、疑問が浮かび上がるのに、彼は聞く暇さえ与えてくれない。

手首を押さえつけられたのと、スカートの間に幸村くんの膝があるせいで、身動きができない。
垂れ下がった藍色の髪は頬をくすぐる。緩やかに細められた瞳のなかに、わたしが、いた。




「好きな人がいるんだ。その子にどうしても近付きたくて」



不意に手首を離され、慌てて上半身を起こす。ベッドの枕側へと移動できたものの、そこには壁しかない。
ずるずると凭れかかり、震える唇を両手で隠した。わからない。ゆきむらくんが、なにをしたいのか。なにが起きているのか。
幸村くんの言葉も、遠くで聞こえるみたいに、耳から抜けていく。


彼は薄い唇の端を上げて、距離を詰めてくる。後ろには壁、前には幸村くん。
どうしようもなくて俯こうとすれば、視線の先に、幸村くんの滑らかな手のひらが見えた。


それは、身体の奥の心臓を掴むように、わたしの薄いシャツを握って。







17:20




「なまえの心臓、もーらった」


耳元で甘美に囁かれた言葉。いつもより幾分か低い声に止まってしまいそうな鼓動と、処理しきれない現実。いっそこのまま、深い眠りに沈んでゆけたら。
ぎらりと煌いた幸村くんの目が、「そんなの許さないよ」と、云っているようだった。






さいごの呼吸



120115



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