一緒にこい
このまえから、跡部くんのことばかり考えてしまっている。
優しい声色も乱暴な頭の撫で方も、しつこいくらいにリフレインしていた。
どうしてだろうと思いながらlargoへと向かう。足取りは軽い……ような気がする。豪華なシャンデリアを見上げ、レッスンルームに着くまで、跡部くんから借りた映画を何度も何度も思い返していた。
景色も人物もピアノの音も、すべてが美しく、そして何より生々しかった。主人公の心がしっかりと描かれているわけじゃない、頭ごなしに感動的なわけじゃない。これをわたしにと選ぶのが、とても、跡部くんらしかった。
つまり、わたしは自分で選ばなくてはいけないのだろう。
ピアノを、連弾を、跡部くんと一緒に弾けるようになるためにはどうすればいいか――考えなければいけない。
「こ、…こんにちは」
「ああ、名字」
レッスンが始まるにはまだ余裕がある。
深呼吸してから教室のドアをゆっくりと開けて、机の前で座っていた跡部くんに声をかけた。跡部くんは声でわたしだとわかったのか、振り返らずにそう呟く。
苗字を呼ばれただけなのに、心臓がどきっとする。跡部くんの低い声はわたしを惑わす。なんだかそわそわしてしまって、考えていることがそぞろになるのだ。
できるだけ可愛らしいショップバッグにDVDを包んだのを、胸の前で一度見つめた。うん、袋も皺になってないし、中身も大丈夫。
なるべく静かに跡部くんの近くへ歩いていく。跡部くんは黒のイヤホンを片耳に付けながら、楽譜を読んでいるようだった。
「……跡部くん、」
「何だ」
「これ、か、借りてたやつ。あのね、ありがとう、すごく好きな映画だったよ。一週間で三回も見ちゃ、っ…て……?」
跡部くんの顔を見ると緊張してしまうからと、シャツの襟のあたりを見つめる。何回もイメージトレーニングした言葉を口に出していると、その襟がどんどん上がっていってしまうものだから、わたしもゆるゆると視線を上げるしかなかった。
ぱちり。目線が合う。跡部くんが立ち上がって、わたしを見下ろしている。…な、なに、なんですか。
「一緒に来い」
「え?え、わああ手、が!」
「……蛾?」
彼の指先がわたしの手首を掴んだ。冷たさと唐突さの両方に驚いて、唇が震える。一緒にってどこへ?何しに?ピアノはどうするの?ねえ、跡部くんって虫がすきなの?ハエに蚊に蛾って!
問いかけようとした言葉たちは、跡部くんの広い背中を見ていると、どうしても口から出てきてくれなかった。
◇◇◇
階段を下りる。廊下を歩く。ドアを開ける。何度かそれを繰り返して、十分程が経ったころ。わたしと跡部くんは、白を基調とした清潔感あふれる部屋にいた。
ど、どこだろうここ…。勝手に入っていいのかな?
この建物内ではロビーと廊下とトイレと教室ぐらいにしか入ったことがないわたしにとって、見たことのない部屋は恐怖でしかなかった。そこらのものが全部、高級品に見える。
「跡部くん、ここって…」
「リフレッシュルームだ」
簡潔に返ってきた答えに素直に頷けないまま、はあ、と気の抜けた返事をする。リフレッシュルーム…休憩室ってこと?そんなものまであるなんて驚きだ。
きょろきょろと辺りを見回していると、跡部くんは壁に付けられたインターフォンのようなものを操作して、何かの番号を打ち始めた。
「……はーい。もしもし」
「跡部です」
「ああ、こんにちは。どうしました?」
「名字が、気分が悪いようなので。寝かせたらすぐ向かいます」
えっ。わたしの話題に驚きながら、跡部くんの方に近付いていく。
今の声は…先生?というか、わたし、気分悪くないんだけど…。話が掴めず、跡部くんの背中をとんとんと遠慮がちに叩いた。
振り返った彼は僅かに眉を寄せていて、身を縮める。なんなんだ。先生の「わかりました」という柔らかな声が部屋に響き、わたしは押し黙った。
「お前、目が腫れてる」
「へ、……あ、これは…昨日の夜もDVD見て、その…」
「少し寝とけ。終わったら迎えに来る」
ぐっと背中を押されて反対側を向けば、それはそれは立派なベッドがあった。……いやいや、こんなのに寝れないよ…目が腫れてるだけで…!しかも感動して泣いたっていうばからしい理由だし…。
跡部くんを振り返って見つめると、彼はわたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、それから腕の中にあった袋を取り上げた。
「――コレの効果はあったみたいだな」
「あっ、う、うん!惹き込まれて、何回も見ちゃって」
もうわかった、と言うように跡部くんが背中をぽんと叩いた。
しょうがないので、そのまま黙って靴を脱ぎ、ベッドに潜り込む。わ、わああ……ふわふわだ。布団が軽いし、肌触りも気持ちいい。
思わず双眸を瞑ってしまうと、瞼にてのひらの感触がした。跡部くんの匂いもする。彼の指の冷たさが腫れた瞳に丁度良く、どんどん意識がまどろんでいく。
昨日DVDを見始めたのがもう夜の九時過ぎだったから……寝たのは日付が変わってからだ。睡眠不足に、気持ちの良いベッド、心地よい跡部くんの手。
レッスンを受けたい気持ちもあったけれど、ここまで条件が揃ってしまって、逆らう気持ちはもうゼロに等しかった。
「跡部くん……」
ぽつりと呟くと、指先が離れていった。まだそこに居るだろうと思いながら、唇を開く。
「あとべ、くんて…お父さんみたい……」
それとね、わたし、ピアノ、頑張るね。
そこまで言葉になったかはわからない。ただ、眠りの最中で、頬をつままれたような気がした。