これを見ろ







鍵盤をとん、と叩いて演奏を終える。
誰かが見ている前で弾くのは恥ずかしいけれど、連弾よりはましだ。
次第に身体が熱くなるのを感じながら、せめて顔が赤くならないようにと深呼吸を繰り返した。

音に深みがでてきましたね、と、先生が微笑みながらそう言って、楽譜を畳んだ。
深み、かぁ。たしかに自分でもそう思う。以前習っていたことを順々に思い出し、前よりもずっと上手く弾けるようになった。

緩む頬を両手で挟んで、俯きながら息を零す。




「それでは、跡部くん」
「―はい」



跡部くんが音もなく立ち上がって、ピアノの方へ向かってくる。
連弾をするんだろうか。そう考えた途端、心臓がどきどきと高鳴った。期待という意味ではなく、ただ、怖い。




「名字さんはこちらに」
「は、はい…」
「練習なので、大丈夫ですよ」
「…」



先生に案内されたのはピアノの右側、つまり高音部だ。
何も言えぬまま頷いて、跡部くんが隣に座れるよう、スペースを空ける。

ガヴォットの楽譜を見つめる。楽譜自体は初級向けのもの。それも連弾用で、わたしが弾く音譜は少ない。
跡部くんも悪いひとじゃないし(…多分)、先生も親身になって教えてくれている。
一週間前にファミレスでお話をした小鳥遊さんだって、わたしのことを応援すると言ってくれた。…あれ、応援って連弾のこと、だよね。


だから、大丈夫。
自分に何度も言い聞かせ、震える指先をぎゅっと握った。





「爪」
「へ…」
「それ以上握るなよ」



跡部くんが隣に座ったかと思えば、わたしの手をそっと持ち上げた。
色白で華奢だと思っていた彼の手は、比べてみると全然違う。やっぱり、男の子の指だ。骨がごつごつしていて、すこし冷たくて、大きい。



(つめ…)


近距離に耐えられず、自分の指先を見る。いつもは薄いピンクの爪が、随分と白い。こんなに握り締めてたのか。




「発表するための練習をするわけじゃねぇんだぞ」
「……うん…」



largoでピアノの練習するのも、三ヶ月間だけ。発表会があるわけじゃない。
そう思うと、心が軽くなったような気がした。

跡部くんの青い瞳を見つめ返せば、彼は口元を静かに緩めて手を離し、前に向き直った。
わたしもピアノを見つめて、熱がすこしだけ移ったような指先を鍵盤に置く。……この状態、跡部くんの肩が若干触れてるんだけど。い、いいのかな。


メトロノームが鳴り出して、二拍待ち、指を動かした。






「――あ」
「……名字」




信じられない、最初の音を間違えた。
うう、跡部くんの溜息がいつもより近くで聞こえる!





◇◇◇







よりにもよって、一番最初の音を間違えてしまうなんて。
跡部くんのおかげで、だいぶ緊張が解れたと思っていたんだけど…。それにしても、悔しいというか、恥ずかしいというか。
先生が気を遣ってくれたのか、そのあとすぐにレッスンは終わった。
もう、二人がどんな顔をしていたか、どんなことを喋ったか、覚えていない。


先生にも跡部くんにも悪いことをしてしまった。
特に跡部くんなんか、わざわざ手を握って励ましてくれたのに。




(……あーあ)


机に突っ伏して溜息を吐き出した。あ、やばい、泣きそう。最近涙腺が緩い気がする。
なんとか堪えて、落ちそうになった楽譜を抱える。冷やりとした机はすべすべで気持ちがいい。…これも高級なんだろうか……。

そう思ってぱっと起き上がると、目の前でハニーブロンドが揺れた。







「! あとべくんっ」
「…舌足らずだな」
「ごっごめん…ビックリして」



謝らなくてもいい、と、形のいい唇が言葉を紡ぐ。
なんだ、とっくの昔に帰ったと思っていた。壁時計を見ると、レッスンが終わってからそんなに経っていない。
跡部くんはわたしをじっと見つめた後、すぐに立ち上がった。前の椅子に座ってたのか、と気付いてから、はっとする。……か、帰れってことかな。


楽譜を鞄に入れて、わたしも立ち上がろうとして、止める。
跡部くんの右腕がわたしの左腕を掴んでいた。




「―お前、映画は何が好きだ」
「っ、えい…」
「映画のジャンル」
「え えっと、洋画…」
「…へえ。例えば?」
「い、イギリスとか…フランスの映画。最近見たのはオーロラ、かな…?古いのだと、小さな恋のメロディとか…」



いきなりの質問に戸惑いながら、鞄を持って中腰のまま答える。ど、どうしよう…立っていいかな。
腰の痛さに堪えかねて、ぴんと背筋を伸ばしてみる。と、左腕にかかった力が抜けた。

跡部くんは聞いているのかいないのか、わたしの頭の上あたりを見ている。
沈黙。ついさっきまでピアノの音が流れていた教室は、すっかり静かになってしまった。





「貸してやる」
「――、か…」



「…蚊?」と訝しげに跡部くんが尋ねた。この前はハエって聞かれたし、今度は蚊って。
首筋あたりまで上った熱をどうにかしようと、一瞬目を瞑ってから、彼の手のうえの物を見つめる。

薄緑色でPIANO、と大きく書かれたジャケット。
白のワンピースを着た少女が、ピアノの上に乗っていた。その隣には対照的に、黒のドレスに身を包んだ女の人が立っている。
夕方の海をバックに、不思議な光景が広がっているその表紙。簡単には受け取ることができず、強張った指先をそろそろと伸ばした。



「次までに、これを見とけ」
「えっ、いいの…?」
「…聞こえなかったか?」



跡部くんの溜息にぶんぶんと首を振って、そのDVDを両手で掴み、「ありがとう!」と告げる。
自分でも出したことのないくらい大きな声が出て、鼓膜が震えた。

また、励ましてくれているんだろうか。うれしくて、うれしくて、涙が出そうだった。
楽譜を取ってこいと言われたり、勝手に彼女にされたり、その他いろいろ横暴なことは全て忘れてしまうくらい。
何もできないわたしに、彼はどれだけのことをしてくれるんだろう。跡部くんってすごい。





「気持ちを落ち着かせるのも大事だ」
「う、うん!」
「…返事だけは元気だな」


受け取ったそれを鞄に入れようとジッパーを開けていたら、くしゃ、と頭を撫でられた。
心臓が跳ねて、思わず声が出そうになる。男の子に撫でられるなんて、はじめてで。きっと彼はプレイボーイというやつなんだろう。他の女の子にもこういうことをして、勘違いされてそうだ。


ふわりと香った跡部くんの匂いが、わたしの心臓をくすぐる。





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