抱きしめろ







かえりたい。かえりたい。大事なことなので二回言いました。
というか、何でこんなことになってるんだろう。原因は跡部くん、というのは明らかだけど。



「小鳥遊、と言います」
「わ、わたしは、名字…です」
「名字さん、ね。お話、聞かせてもらえる?」
「はっ…はい…」



呼吸もままならずに、たどたどしく返事をすれば、睫毛の長い彼女は静かに苦笑した。
ひう、と変な声が飛び出しそうになって、慌てて唇を噤む。


ピアノの練習が終わり、跡部くんよりも先にレッスン室を出る。…そこまでは良かったのだ。早足のままロビーを抜けようとしたところで、彼女がわたしに声をかけた。

わたしの記憶が正しければ、この前のレッスンのときに跡部くんを待っていた女の人だろう。―ただ、記憶の中の彼女はわたしを睨んできたり、悲しそうな顔をしていたのだけれど、今はそんな様子が全くない。むしろ、大きな瞳を輝かせている。


期待をしているようにも見えるその表情にどぎまぎしながら、えっと、と呟く。

お話、と言うのは跡部くんとのことだろうか。正直、聞かれても困る。彼とは何もないのだ。
それなのに跡部くんが、わたしのことを「彼女」などと宣言するから、こんなことになってしまう。

でも、すぐに否定できなかったわたしも悪い。どうにか誤解を解いてもらおう…!




「な、なんの話を…すれば…?」
「あ…ごめんなさい。跡部様とは、いつからなの?」
「え!…うーん、ええっと…三週間前くらいです…」
「そう」



小鳥遊さんはこっくりと頷くと、綺麗な動作でアイスティーを飲む。
……どうしよう、思わず答えてしまった。で、でもピアノのレッスンも三週間前からだし、あとで説明すれば…。
うう、胃が痛くなってきた。なんで嘘に嘘を重ねてるんだろう。


がやがやと騒がしいファミレスで、鮮やかな緑色をしたメロンソーダを見つめる。
沈黙が辛い。けれど、質問をされるのはもっと辛い。なんだろう、この、恋の話をしている女の子感…。しかも小鳥遊さんは跡部くんにフられているんだ。わたしのせいで。辛く、ないんだろうか。





「告白はどっちが?」
「こっ、告白!?」
「…答えたくないならいいけれど」
「……ごめんなさい…あ、あの、実は…」




これ以上嘘をついちゃいけない。小鳥遊さんに、つきたくない。
やっと決心がついて、本当のことを言おうとしたとき、こん、と窓が鳴った。
この席は窓にぴったりとそっている。それ故に、控えめなその音がしっかりと聞こえたのだろう。

わたしと彼女は目を合わせ、同時に外を見つめた。




「…あっ」
「跡部様!」



心地好いソプラノの音で、小鳥遊さんが彼の名前を呼ぶ。
彼は確かに、跡部くんだ。え、リムジンに乗って帰ったんじゃなかったの。…いや、今日は駐車場に停まってなかった気が…(物凄く目立つので覚えてしまう)。

跡部くんは微かに眉を顰め、溜息をついた。そして入り口の方まで歩いてくると、店員さんにわたしたちの方を指差して、なにか喋っている。
逃げたい。帰りたい。最初にも思ったけれど、今はもっとその気持ちが強い。





「――おい」
「何の、用でしょうか?」
「ああ…悪い、お前じゃねぇ。名字」
「ひっ」
「返事しろ」
「は はい!」



恐怖で口元が歪む。情けない声で返事をしながら、目の前で立つ跡部くんを必死に見つめる。視線を外したら怒られそうな気がするからだ。
瞳が潤んだ気がして、泣くことだけは避けたいと思いひたすら耐えた。



「俺様と一緒に帰る約束だろうが」
「…………え?」
「返事」
「は…え…」


跡部くんが眉をぎゅっと寄せて、「蝿?」と問いかけてくる。ハエじゃなくて…その……帰る約束?なに言ってるの、この人。いつしたんだそんなもの。
何も言えずにぱくぱくと唇を開閉させていると、小鳥遊さんが「いいですか」と呟いた。



「…何だ?」
「名字さんは私が無理矢理連れ出したので、あまり責めないでください」
「(た、たかなしさん…!)」
「それと、跡部様に聞きたいことがあります。…本当にこの方と、お付き合いしているんですか?」
「前にも言っただろうが」
「…私は証拠がほしいです」


彼女がじっと跡部くんを見据える。その瞳は真剣だ。恋をしている相手だから、当然のこと。
そう考えると、罪悪感で心臓が痛む。どんどん瞳が潤んでくる。

安っぽいテーブルに涙が垂れ落ちそうになったとき、左腕に力を感じた。




「抱きしめろ」
「っな、なん」
「俺のことが少しでも好きなら、抱きしめろ。嫌なら振り払え」



立っていた跡部くんにぐい、と引っ張られて、涙は床に落ちた。小鳥遊さんは黙って、わたしたちを見ている。たぶん会話も聞こえていたはず。
わたしが泣いてどうする。泣きたいのは、きっと、彼女だろう。

何故わたしは、人にはっきりものを言えず、流されてしまう性格なのか。今更になってひどく後悔する。
跡部くんのことは、決して嫌いではない。だからこの手を振り払えない。けれど、小鳥遊さんの悲しむ顔も見たくない。これはただの我儘か。







「…わかりました。無理強いは良いことではないですね」


そう言ったのはわたしではなく、小鳥遊さんだった。
ゆっくりと顔を上げる。他の席に座る人々は、わたしたち三人を見ていたり、さして興味もなく誰かと話していたり。



「女の子を困らせてはいけないと思いますよ」
「……、」
「あの…た、小鳥遊さん?」
「進展が楽しみです」



彼女はふふ、ときれいに笑う。わたしはぽかんと口を開いて、なんとも残念な顔をしているだろう。
跡部くんは少し目を見開いていたけれど、そのうち、口元を緩めた。


わたし一人だけどういうことかわからずに、小鳥遊さんに尋ねると(跡部くんに空気を読めって溜息つかれた)、「好きな人の恋愛を見るのも、楽しいの」と言っていた。

お、女の子ってむずかしい…。
でも恋愛、って?跡部くん、好きなひとでもいるのかな。





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