明日つきあえ








また一週間が経った。結局前回はレッスンを受けていないし、跡部くんと連弾もしていない。わたしは言われるままに高級なベッドで眠りこけていたし、彼が迎えに来る頃にはとっくに日も暮れていた。情けなくてちょっと泣いた。

跡部くんが気遣ってくれたのはうれしいけれど、とっても嬉しいけれど。でもでも、前々回は楽譜の最初の音を間違えて終わりだったから……つまりわたしは、あそこから全く成長してないってことだ。

これじゃだめだ!



「…そうですね。もう少し抑揚をつけて」
「はい!」


先生にアドバイスを受け、指を動かし、滑らかに音を繋げていく。ひとりで弾いたらわりと上手くできるものなんだけど…まあ担当する曲、ガヴォットが初心者向けなのもあるし。練習すれば小学生でも全然弾けてしまう曲だ。
ただ、やはり先生が編曲し、アレンジを加えた楽譜なだけあって、容易くはない。と言うか、この曲、こんなに難しかったっけ…と思ってしまうぐらいの出来だ。連符や調号が多く、強弱をつけたり譜読みだけで精一杯。

わたしがピアノと楽譜とを見ながら鍵盤を圧していると、急にイスが動いた。





「―――えっ?」
「そのまま続けろ」
「うそ、跡部くんっ、」
「名字さん、上手ですよ」


いつのまにか隣に跡部くんが座っている。尚且つ、わたしが弾いているピアノを一緒に弾いていた。音が重なり合うことで、肩が触れ合う。ちょ、ちょっと、急すぎる…!


楽譜が半分まできて、先生と跡部くんの言葉にのせられながらわたしは必死に音を辿る。わたしが担当するプリモは主旋律。低音部を弾くセコンドである跡部くんに引きずられてはいけない。力強く深みのあるピアノの音色が隣で聞こえた。


跡部くんは上手い。
最初のころはその性格から、どんどん弾いていってしまうタイプなのだろうと思っていたけれど、そんなことはなかった。わたしの音に合わせている、というか…綺麗に合わさるようにしてくれている。それでも、彼の個性である荘厳さというか、きちんと音に深みが出ているのだ。
跡部くんのピアノは、カリスマ性があって、色んな面を兼ね備えている。







「明日つきあえ」
「………はい…?」


なんとか最後まで弾き終えて、丁度よくレッスンが終わり、へろへろになりながら机に突っ伏していたわたしに、跡部くんがそう告げた。明日?明日って、土曜日だよね。特に予定はないけど、レッスンがあるわけでもないのに……。
初めての連弾の感覚を忘れないように色々と書き込んだ楽譜を閉じて、彼を見上げる。


「もしかして、自主練、するとか…」
「察しが良いな。休みまで練習するのは嫌か?」
「そ、そんなことないよ。あの、でも、ここって明日も空いてるの?」


鋭い視線にふるふると首を振る。どっちにしろ今日の連弾ではだめだ。跡部くんがわたしのレベルに合わせてくれているのが物凄くわかってしまう演奏だった。
うーん、largoはいつでも空いてるのかなあ。お金持ちさん御用達、ってかんじだし…。


「空いてる」
「そっかあ…じゃあ明日はここで待ち合わせだね」
「だが、練習する場所は違ぇ」
「へっ?ど、どこで……」
「十時にここの入り口前」


わたしの質問には答えず、跡部くんは待ち合わせ場所と時間だけを告げると、すたすたと教室から出て行ってしまった。お、おーい…!



◇◇◇






結局、跡部くんの言うことには逆らえず、わたしは待ち合わせ時間の十分前に、largoの玄関の前まで来ていた。
ロビーでよく見かけるお姉さんが、外にいるわたしに会釈をする。制服じゃないのによくわかったなぁ…さすが一流…。

まさか休みの日まで制服で出かけるわけにもいかず、柔らかなシフォン素材のワンピースに、淡い色合いの上着、というコーディネートを急遽考えた。と言っても、最終的にその服に決めたのはお母さんだったけれど。


腕につけた時計を見つめると、いつの間にか待ち合わせの五分前だった。鞄の中を覗き込んで、必要なものが揃っているか確かめる。楽譜、ペンケース、お財布、ポーチ。うん、大丈夫みたい。顔を上げた瞬間、目の前でキュッと短くブレーキ音が鳴った。



「……、早いな」
「跡部くん!こ、んにちは」
「ああ」


窓が開いて、跡部くんが顔を覗かせた。うわあ、リムジンだ、リムジン。緊張しながらぺこりと頭を下げて、挨拶をする。


跡部くんはわたしの姿を頭から爪先まで眺めて、「乗れ」と一言。静かに頷いて、自動的に開いたドアに目を丸くしながらリムジンに乗り込む。すごい、車内がこんなに広いなんて。しかも冷房が効いている。外との気温差でより冷たく感じる心地よい風に、はあ、と感嘆の息を漏らした。

物珍しさに視線を忙しなく動かしていると、跡部くんはわたしの顔面にふわふわのブランケットを投げつけてきた。い、いたくないけど、びっくりした……。









「……あ、ありがとうございました」


どうやら、練習場所は跡部くんの家らしかった。運転手さんにお礼を言って、リムジンが止まった先にある大豪邸を見つめる。すごい…お城みたいだ。
庭の噴水やお城のような照明にいちいち驚きながら彼の部屋まで向かう。


広々とした部屋、高い天井に大きなベッド、ソファ。古めかしくも高そうな蓄音機の隣にレコードが並び、さらに隣には最新式のスピーカーが鎮座していて、周りにはCDが綺麗に整頓されていた。
跡部くんは小さなリモコンで照明や空調を操作して、それから、部屋の奥にあるグランドピアノの掛け布を静かに払う。



「お邪魔します、…跡部くんの部屋、ひろいね」
「…名字の部屋はどの程度の広さなんだ?」
「え、えーっと……そこのピアノが二つぶんくらい…」


いや、二つも入るかな……。わたしが指差したピアノはそれはそれは豪勢で立派なグランドピアノ。黒く光沢しているそれを見つめながらそう呟くと、跡部くんは僅かに瞳を見開いて、それから、そうか、と静かに言った。

跡部くんがピアノの前に置いてあったイスに座る。二人掛けのイスはふかふかのクッションが付いていて、座り心地が良さそうだ。
とん、と隣を指差されて、慌てて鞄から楽譜を取り出し、跡部くんの隣に腰掛ける。わー、ふかふかだ。


「――弾くぞ」
「も、もうやるの?」
「まずは回数を重ねる。俺との演奏に慣れろ」
「なるほど……う、うん。じゃあ、頑張ります」



両手でぎゅっと手を握り合わせて、それから開いた。右手で鍵盤を圧す。ピアノの音の深みに驚きながらも、楽譜を見ながら指を動かしていく。
跡部くんの伴奏が入り、思わず背筋がぴんと伸びる。彼のいる左側に意識が集中してしまって、じわじわと熱を帯びたように感じた。

ああ、でも、跡部くんの演奏の柔軟性はやっぱりすごい。どの音にもきれいに繋がって、迫力があって――それなのに、プリモであるわたしの演奏を潰さない。それどころか引き立てている。それにつられたのか、わたしの演奏もいつもとは違っていた。端的に言えば、今までより華やかな音が出るようになっていた。




「…そう、そのまま」


耳の近くで囁かれる。跡部くんにその気はなくても、ぎゅっと身体を縮こませたくなった。彼の、脳に直接響くみたいな低い声は耳と心臓にわるい。
言葉が出ず、必死にこくこくと頷いてから鍵盤に視線を向け、両手を滑らせる。ペダルを踏む跡部くんの脚がわたしの左脚にときどき触れて、それがとてつもなく恥ずかしかった。ああ、こんなに足の出るワンピースを着てくるべきじゃなかったなぁ……。


そのまま、そのまま。
跡部くんが言った言葉を何度も頭のなかで繰り返して、なんとか曲を弾き終える。



「ふん……形にはなってきたか」
「…たしかに、いつもより上手く弾けたかも」


僅かに震えている自分の両手を見つめて、瞳が潤んだ。ペアを組んだり、連弾をしたり、そういうのが苦手だった。いや、今でも得意になれたわけじゃない。
でも、跡部くんとなら。そう思えるようになった気がする。


「次はショパンのワルツを弾く」
「跡部くん…ガヴォットは弾かないの?」
「今は慣れることが最優先だ。それに、曲を初見で弾けるようになるのは連弾の経験値になる」
「わ、わかりました。それで、どのワルツ?」
「第9番、変イ長調作品の…」
「ああ、別れのワルツかぁ…」


―ショパンが当時付き合っていた恋人、マリアに捧げた曲だ。別れのワルツ、と呼ばれているものの、この作品はショパンがマリアと付き合っているころに作ったものらしい。彼女と別れたことが悲しく、ショパンは生涯この作品を自分だけの思い出としてしまいこんでいた。…けれど、楽譜は彼の死後に発見された。

そうだよね?と跡部くんに確認をとる。彼は目を丸くして小さく頷き、それから「名字は意外と博識だな。それに、珍しくよく喋る」と呟いた。自分の興味のある事柄をべらべらと話をしていたことに急に照れくさくなって、口をつぐむ。




「まあ、最初は上手く弾かなくてもいい。プリモとセコンドの信頼関係を築くのが大事だ」
「信頼関係……」
「当面の目標は、お互いがお互いの音に合わせたいと思うこと、だな」


そんなの、跡部くんは練習しなくても…。とは思ったが、せっかくわたしの練習に付き合ってくれているんだ。申し訳なく思いながらも、うん、と力強く頷いた。
考えなければ。どうすれば、跡部くんの音に合わせられるのか。





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