「…レポート地獄とか…」 「お疲れさん、名前」 「うん…ねむいー…」 「はは、もう寝なっせ」
普段の様子から想像できない程ふにゃふにゃとした言葉で、彼女は文句を呟いた。 あやすように髪を撫でてやれば、指先を掴まれる。
すこし、冷たい。
その手首の細さと掌の柔らかさに息を零し、千歳は、壁時計で時間を確かめた。
綺麗にまとめられたレポート、写し終えた紙の束を見つめて、よく短時間でここまで書いたものだと感心する。
二人でだらだらと授業をサボることはあっても、彼女はこういったところで努力を怠らない。 それ故に、教師からの評価も高いのだ。
「…目が痛い…」 「あげん集中しとったら、痛くもなっとよ」 「めが、めがぁ」 「……大佐の真似せんでよか」
思わずつっこんでしまうと、ふへ、と気の抜けた笑い声が聞こえる。集中力が途切れてテンションが変になっているのだろう。 千歳はそう結論づけて、名前の肩に顎をのせる。
薬指にできたペン胼胝に触れると、擽ったそうに軽く振り払われた。 なに、と言いたげな表情で見上げられ、緩く笑みつつ首を振って、名前の眼鏡を外す。
彼女はきれいだ。 時折、息を呑むほど。
面と向かってそう言ったことはない。甘い言葉は、彼女を見ていれば、彼女に触れていれば、口を衝いて出る。 だから別段恥ずかしいだとか、そんな感情を抱いているわけじゃなく。
ただ、きれいだと告げたら――彼女はもっときれいになって、どこかへ行ってしまいそうで。 それを引き止め、穢してしまうのが嫌なのだろう。
「ありがとー…」 「名前、ケースどこやったと?」 「ん、もういい…そのへんに置いといて」
言われるまま、眼鏡をテーブルの真ん中あたりへ置く。 胡坐をかいた足の間にすっぽりと収まっている名前は、睡魔と戦うことを諦め、その瞼を閉ざそうとしている。 かくん、と揺れた頭を支えてやろうと、ぎゅっと後ろから抱え込んだ。
自分を誘うような甘い匂いと、柔らかな身体。 思わず目を細めつつ、眠気のせいか温かい首筋に、ひとつキスを落とす。
―――むぞらしかねえ。
ぽつりと呟いた声は名前の耳に届いたのか、「んん」と小さく唸った。 言葉の意味を理解しているのかどうかは別として。
ふとテーブルの上に視線をやると、彼女が残したココアが目に入る。手を延ばしてマグカップを触るも、とっくの昔に冷めてしまったようだ。
勿体無い、と眉を寄せる。 が、その隣には自分のマグカップがあり――中には残した生姜湯が入っていた。
誰に見られているわけでもない。 自分の考えてることなどわかるはずがないのに、気まずくなる。
「…ココアはやっぱり森永〜…」 「、……ふぐっ」
誤魔化すようにCMで流れていた曲を何気なく歌えば、名前が思いきり吹き出す。抱きかかえていた身体は、笑いを堪えるように震えていた。 寝てるんじゃなかったのか、と口元を押さえて眉を寄せる。
彼女はもぞもぞと動き出して上体を捻り、千歳を見上げた。
「不意打ちはやめてよ…はぁ、お腹いたい…」 「ばってん、起きとると思っとらんかったばい」 「いや、いきなり歌い始めたからびっくりしたの」 「……俺が歌ばうたうのは、変と?」 「そういうわけじゃないけど…ふふ、」
向かい合うようにしてじっと顔を見つめれば、また吹き出される。 とろんとした瞳がくしゃりと歪んで、可笑しそうに腹を抱えだした。
(…ほんなごつ、むぞか)
まだ少し肩が震えている名前に、大人しくせんね、と呟いて首筋へ噛み付く。
突然の行為にびくりと身体を揺らし、不安げに自分を見つめたのをいいことに、欲望のまま八重歯を突きたてた。 薄く浮き出た鎖骨へと唇を滑らせ、甘噛みし、今度は耳朶へと這わす。
ただ彼女を、静かにさせようとしたはずなのに、ひどい男だ。 そう自覚してはいるものの、抑制できぬ欲が、名前の服の裾に手をかけて太腿を撫で上げていた。
「――ちとせ」
透き通った瞳が、千歳の瞳を捕らえる。 手を弱い力で掴まれて、整えられた爪が当たった。
その指先が未だ冷たく感じるのは、俺の手がひどく熱いからだろうか。
「あのね、今日は眠いの」 「…わかったけん、そげん睨まんと」 「睨んでない」 「睨んどるばい」 「……拗ねてる…。今度、今度ね」
わかりやすく拗ねるなんてことはしていない。 けれど、彼女にはわかってしまう。微妙な気持ちの変化に気付いてしまうくらい、自分を見続けてきてくれたのだ。
それを千歳は、知っている。
「…じゃあ今度するときは、」
遠慮せんで良かね。
白く細い手首をやさしく掴んで、口付ける。口元が緩むのがわかって、眉を寄せながら笑った。 こうして我慢するのが平気なくらい、彼女に恋をしている。
名前は千歳の言葉にきょとんと目を丸くしたあと、おんなじように、微笑んだ。 淡い間接照明の光が、蕩けた蜂蜜みたいに、ふたりを包み込む。
「ばか」
ああ、彼女はやっぱりきれいだ。
聖女マリアに くちづけを
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