『今日、死ぬね』
急に家に連れ込まれ、この部屋で名前が発した言葉はそれだけ。切羽詰った表情でもなく、名前は、学校でよく見る穏やかな笑顔を浮かべていた。誰にでも分け隔てなく接する彼女の、得意な顔だ。
ふうん、と思う。たとえ名前と俺が恋人同士でも、それ以上の感情は抱かなかっただろう。ただの友達。家に遊びに行ったり、名前が俺の家に来たりする程度の仲。「へえ」と呟いて、いつもと同じ位置に鞄を置いた俺を、名前は笑った。 相変わらずだね、とでも言うような笑い方だった。
***
「っう、ぁ」
自らの手で首を絞めようとする、名前を見つめる。案外細い指しとるなぁ、とペットボトルに残ったスポーツドリンクを飲みながら思った。いやに喉が渇く。
随分馬鹿みたいなことしとるで、自分。
名前の健康的な肌はじわじわと赤くなり、眼球も充血してきていた。少しでも名前が動くと、安価なベッドスプリングがぎし、と軋む。耳障りな音に舌打ちをして、空のペットボトルを床に置いた。
彼女はなぜ、これを俺に見せようと思ったのだろう。 自らの最期をみてほしいのか、止めてほしいのか。 ああ、すこしでも自分を覚えていてほしいんだろうか。
呪縛のようだ。
俺の足元にどろどろと絡み付いて、離れない。仲の良い同級生が、目の前で死ぬ。何かの拍子に思い出すだろう。この光景を簡単に忘れるほど、俺が冷たい人間じゃないということを、名前は気付いているのだ。
(…面倒やな)
溜息を吐いて、彼女に跨り、そのまま馬乗りになる。 名前の視界では何が起こっているのか把握できていないようで、ぱくぱくと唇を動かすだけだった。
「やめろ」
首を絞め続けようとする名前の手をぐっと引き寄せて、離す。
俺が何の気なしにあげたネックレスをかけている彼女の首筋には、真っ赤な痕。 名前は酸素を思い切り取り込むように喘いで、それから、ぜえぜえと喉を鳴らした。 死にたがってるのに、酸素を必要としている名前の姿は滑稽で、人間らしい。
「……なんっ…、で」 「気分悪いわ。死ぬなら一人で勝手にしい」
真っ赤な頬に潤んだ瞳で、荒い呼吸を繰り返す名前。馬乗りの俺。 セックスしてるみたいやな、なんて思い自嘲気味に笑った。
「ねえ、わたし…もう、やだ」
枕にぐったりと頭をのせる名前が、掠れた声で呟いた。 唇は色を失っていて、指先と膝は情けないぐらい震えている。 このまま壊してしまいたい。俺が必要だと心臓に刻み付けてやりたい。俺なしじゃ生きられない身体にしてやりたい。そんな欲望を押し殺して、名前の髪の毛を優しく撫でる。
「ほんまに嫌なん?」
え、と名前の呼吸が乱れた。そんな助けを求めるような顔で、全てが嫌だと思ってるんか。 ぽたぽたと涙を流しているせいで、呼吸をするたび、名前は濡れていく。その涙を乱暴に拭い、唇が触れてしまうぐらいまで近寄る。名前は怯えたのか、びくりと肩を揺らした。そして、何かを嚥下する音が響く。
「泣くほど嫌なら、さっさと死ねばええ」 「っ、白石…?」 「できないのは弱虫やから。死にたないから。生きてたいから」 「ちが、」
心臓のあたりに手のひらを圧しつける。胸を押し潰して鼓動を確かめると、どくん、どくん、と鳴っていた。 思わず、鼻先で笑う。
名前はやっと呼吸が落ち着いたようで、唇を閉じる。 それでも、嗚咽する声が漏れていた。
「死にたないくせに」
胸から手を離して、首筋の痕に指先を這わす。 痛々しいそれは空気に触れて、赤から紫へと変わっていく。
「ちがう、しにたいの、ほんとに…」
赤くなった目を隠すように、名前は手で瞼を覆った。小さな泣き声が部屋に響く。興醒めしてしまい、その手を無理矢理払う。充血した双眸が俺を睨み、そして、笑った。彼女は自分を、嘲笑った。
家具も匂いも、なにもかもが甘ったるい部屋で、何でこんなことになってるんやろな。
しにたい、と再度呟こうとした名前の唇に噛み付いて、離す。唾液と僅かな血がついた。 もう、黙れ。
生きなくていいから ( 死んではいけないよ )
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