ただいま、と声を出して、電気のスイッチを押した。静かに発光した白熱灯は、リビングまでの廊下を照らす。 熱をもった足でぺたぺたと廊下を歩いてから、スリッパを履けばよかったと後悔した。 夏から秋に変わっていく時期だからなのか、フローリングは生温い。
バイト帰りの気だるい感覚。 気の抜けた溜息を長く落として、リビングのドアを開け、真っ先にソファに埋まった。 うう、寝ちゃうかもしれない。でも化粧落としてないし…シャワー浴びたい。
そんな気持ちとは裏腹に、身体が重く沈んでいく。瞼の開閉が随分緩やかなことに気付いて、睡魔がじわりと襲ってきているのだ、と思う。 自分の身体なのに、自分じゃないみたい。
「…疲れたー」
小さな声で、呟く。 あ…カーテン閉めてなかった。満月なのか、薄明かりが差し込んでくる。どうりで電気つけなくても明るいと思った。
「(……やっぱシャワー浴びよう。寝ちゃだめだ)」
そう言い聞かせて、無理矢理に起き上がる。ぱちりと開けた視界には、紫色の瞳が見えた。
「…千歳!?」 「ただいま、名前」 「お、おかえり」
ぽんと言葉が返ってきて、目を丸くする。 千歳だ。こんな時間に帰ってくるなんて珍しい。
吃驚したままどうしたの、と問い掛けると千歳は眉を寄せて、それから笑った。
「帰るのが早かっただけばい。なんも珍しくなか」 「…だって千歳、猫とか追ってそのまま旅に出るじゃん」 「そげん自由人じゃなかよ」 「ええー…?」
口元を歪めて千歳を見上げる。 それが可笑しかったのか、とんと頭を叩かれて、そのまま髪の毛を撫ぜられた。 あああ、崩れる…! とその手を止めかけてから、まぁ出かけないしいいか、とされるがままにしてみる。
「………」
…そのまま数十秒。まだわしゃわしゃと撫で回されている。
「……あの…この行為の意味は…」 「名前が疲れてるみたいやけん、癒しとっと」 「い、いいよ別に」
返答に苦笑して、その手からするりと抜け出すと、満面の笑みの千歳と目が合った。 なんで笑ってるの。と言うよりも、いつ帰ってきたんだろう…千歳って、ほんとよくわかんない…。
疑問が浮かんだけど、考えても無駄なのでスルーして、洗面所へ向かう。 持ち帰ったバイト着を洗うために洗濯機を開け、制服と洗剤を入れてスイッチを押す。 大きな音が一回して、すこし揺れたあと、水がざばざばと出てきた。よし、これで大丈夫。
「洗濯?」 「うん。千歳も洗濯物あったら今のうちに入れてきて」 「んー」
間延びした返事を聞きながらキッチンに入り、なにを作ろうか考える。 あんまり重いもの食べたくないなぁ。そんなにお腹減ってないし。 冷蔵庫を覗くと、淡い光が漏れてきた。適当にサラダ作って…あ、ヨーグルトがある!これでいいや。
「省エネ。すぐに閉めなっせ」 「わっ…ちょっと、見えない!夜ご飯食べようとしてたのに!」 「ばってん、また簡単な食事で済ませるつもりたい」 「お腹すいてないもん」 「もん、じゃなか。このへん細くなってきとる」 「…脇腹触らないで」
後ろから圧しかかってきて、脇腹をつまむ千歳の腕をぱしんと叩く。細くなったとか言ってるならつままないでよ…!
冷蔵庫を閉めてもその重さは変わらず、むしろさっきより重くなった気がする。 無理矢理肩に頭をのせる千歳は、身体の大きい動物みたいだ。触れているところ全部が熱くて、苦しいぐらいに抱き締められる。
「くるしい…暑い…」 「一緒にあんかけ焼きそば食べるなら、離してやっとよ」 「…千歳って料理できたっけ」 「コンビニ」
簡潔な言葉に、思わず口元が緩んでしまった。わたしの肩口に押し付けた千歳の額が揺れているから、たぶん千歳も笑っているに違いない。 「わかった、食べる」と言ってその頭を撫でると、千歳の身体が離れる。開放感に息をつけば、また髪の毛を撫で回されそうになった。あぶないあぶない。
わたしの素足に、千歳の室内履きがぶつかる。
下を向くと、黒猫のスリッパが、わたしたちと同じように笑っていた。
「そのスリッパどこで買ったの?」 「白石から貰ったと。ジジに似とるたい」 「あー。…きくらげちょうだい」 「だめ」
|
|