「 ねえ、もう諦めたら 」
生ぬるい風が髪を揺らす、夏の夜。 蛍光灯のか細い光が、わたしの手先を青白く照らした。
玄関の前でしゃがみこんでいたわたしを、彼はへらへらと笑っていたけれど、核心をつけば表情を失った。きっと、さっきの言葉がどういう意味か、すぐにわかったんだろうな。彼は賢いぶん、損をしている。
仁王はわたしの言葉に何も言わず、困ったように眉を下げて微笑む。
そうやって曖昧にごまかして、自分の気持ちに嘘をついてセーブをかけて。 狡いひとだ。頭の良いひとだ。
けれど、ばかだ。
「傷つくのが、こわいんだね」 「……俺は弱い人間じゃから、のう」
仁王はそう呟くと、喉奥でからからと笑う。発言に沿わない、切なげな顔。ちがう。ぜんぜんちがうよ。やっぱり全然わかってないな、仁王は。
そのまま小さく首を振れば、すこし近寄られる。泣きそうになり、慌てて俯いた。瞳が潤んだせいで狭い視界には、仁王の黒いスウェットと、白いビニール袋が見える。
またアイスでも買ってきたの?こんなときに。この状況で。
苦しくないの?
「どうしたんじゃ、名前ちゃん」 「………仁王は」 「ん?」
優しい声で、まるで子供をあやすように問いかけてくる仁王。顔は見れないけれど、とても優しい顔をしているんだろうなぁ。仁王は、わたしに優しい顔しかしない。
あの子に見せるような愛しげな顔は、しない。
その細い指は戸惑いがちに、わたしの髪の毛をくしゃくしゃと撫でている。自分の浅はかさ、馬鹿らしさに鳥肌がたつ。夏なのに寒いような気がして、小さくくしゃみをすると、仁王は笑った。
「ほんとは、自分が傷つくのがこわいんじゃなくて、あの子が傷つくのがこわいんだよ、仁王は」
静寂。 わたしの頭を撫でていた手が止まった。
「告白して、あの子が困るのが嫌。あの子が悩むのが嫌。だから、ずっと言わないでて」
あ。どうしよう。 わたし、苛々してるからって、こんな。
自分の子供じみた嫉妬と、馬鹿らしい独占欲、羨ましさが重なって、涙が溢れてきた。
「だから、だから、…あの子は誰か他の人と付き合ってる…、」
吐き出すように言ってから、しまった、と思った。
しかも格好悪いことに、わたしは思いきり泣いてしまっている。自分だけ言い切って泣くなんて、ものすごくダサい。女の武器をフルに使用している感じがして、嫌だ。鼠色のコンクリートは涙が垂れるたびに色を変えた。顔を上げることはでぎす、俯いたまま、黙ってそれを見つめる。
あの子が付き合ったのは今日だ。 幸せそうに報告してきたのも今日だ。
仁王がそれを、笑って祝福したのも、今日だ。
「俺を心配して、ここまで来てくれたんか」 「…し、…心配、するよ。三年間も片想い、してたんでしょ」 「あー……。それ言われると心が痛いぜよ」
嗚咽まじりにそう言いながら、鼻をすする。と、仁王は、ふへ、と気の抜けた笑い方をし、片手でわたしの頬を摘んだ。えっ。突然のことにびっくりして思わず、顔を上げる。その拍子に、涙が頬に零れた。
その涙を見て、僅かに目を丸くする仁王の顔。ちょっとだけ、笑える。
「…優しいのう、名前ちゃんは」 「べつに…優しくは、ない」
摘んでいた指先に、やさしく涙を拭われるのが恥ずかしくて、そっぽを向く。仁王はコンビニのビニール袋をかしょかしょと揺らして、フッと口端を緩めた。
「そんじゃ、失恋パーティするから、寄ってきんしゃい」 「…アイスで?」 「アイスで」
あほ、と呟けば、頭を軽く叩かれる。 その指先がばかみたいに優しくて、また涙が出そうになった。
ばか仁王。あほ仁王。 わたしなんて三年間も失恋してるんだよ。
すこしだけ憎らしくて、彼が着ている薄いTシャツの袖を、引っ張った。
ねえ、諦めたら。
あの子のことを諦めたら、わたしを愛してくれますか? 恋人未満の関係性から、どうか、
(甘ったるく可笑しな関係性を壊して、神様)
「お前さんは俺のこと、よおわかっとるのう」 「そりゃそうだよ…あほ」 「まだ言うか…。次はどこ叩いてほしいん?」 「…仁王のほっぺ!」
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