先生は意地悪だ。私が先生に恋焦がれているのを知っているくせに、これでもかって位に優しくしてくれる。その度に、心臓が強く強く締め付けられる。諦めなきゃいけないって思ってるのに、諦めれない。その原因を作ってるのは先生だ。全部全部、先生が悪いんだ。


「名前、どうした」
「え!…あ、いや、何でもないです」
「最近、顔色が悪いし食も酷く細い。何か悩み事か?」
「本当に何でもないですって!あ、珈琲淹れてきますね!」


先生の自室の書類の整理中だということも忘れ、一人、考え込んでしまっていたようだ。私は適当にファイルをしまってから慌てて部屋を出る。その時、先生が私を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返ることは出来なかった。静かに閉まったドアの音が、室内に響いた。こういう時にピノコちゃんの元気で可愛い笑顔を見たいのに、少し前に日付を跨いだから今はもう夢の中だろう。小さく息を吐いてから、キッチンへと向かった。

珈琲の薫りは心を穏やかにしてくれる。本当はもう少しここにいたいけれど、あまり遅くなると先生が不審に思ってしまう。先週行った先で買ってもらった、うさぎ柄のトレーに珈琲とお昼に作ったクッキーとメレンゲを添え、乗せる。歩く度にカップを乗せた皿が、かちゃんかちゃんと小さな音を奏でる。先生の部屋の前に付き、ドアを開けようとしたらギィと軋んだ音を出しながらドアが開いた。


「相変わらず賑やかだから、すぐに分かるな」
「前よりは良くなったと思いますけど…」
「前よりは、な」


先生はそう言い、私からトレーを取った。あ、と思った時には既に遅く、先生はトレー片手に部屋に入って行き、私は慌てて付いて行く。知らないうちに天候が崩れていたようで、窓硝子に大粒の雨が勢い良くぶつかっていた。それを見ていて、ふと昔の事を思い出す。


「名前が此処に来た時も、強い雨が降っていたな」
「…覚えてくださったんですか」
「当たり前だろう」


少し微笑んだ顔を見た途端に、全身が熱く火照ったのが分かった。気付かれないように慌てて視線を窓越しの雨に向ける。嗚呼、苦しい。恋とはこんなにも苦しくて辛いものだなんて誰も教えてくれなかった。最初はただ、野たれ死にそうな私を助けてくれた人としか思ってなかったのに。

窓硝子に映る自分の顔は酷く歪んでいて思わず苦笑いが零れる。すると私の後ろに先生の姿が映し出されたかと思うと、先生の温もりが体中に広がっていく。大きな体を曲げて、私の首元に顔を埋めているのが窓硝子に映し出されている。先生、と名前を呼ぶと低くて優しい声で私の名前を呼んでくれた。


「…先生、顔、近いですよ」
「駄目か?」
「いえ…」


私も先生も何も言わない。雨の音だけが夜の静かな部屋に響いている。さっきまで冷えていた指先が、ゆっくりと暖まっていく、そんな気がして私は目を瞑った。

20130129