本日の甲斐の国は非常に心地よい天気である。太陽の柔らかい日差しに、穏やかな風。ふわりと漂う花の甘い香り。その全てが私を誘い、そして誘われるがままに廊下を歩く。心なしか今日は女中たちの表情も柔らかく見える。
ここ数カ月は血を流す出来事が起きていない。それ故か、時間がゆっくりと流れているような気がする。外では幸村が息を切らしながら槍を振り回していた。それすら微笑ましく思いながら、練習の邪魔をしないように静かにその場を過ぎ去る。
ギシギシと軋む廊下をゆっくりと歩きながら辿りついたのは、私の秘密の場所。鮮やかな色彩で描かれた襖を開く。幼い頃、幸村とかくれんぼをしていた時に偶然見つけた部屋だ。普段誰も出入りしていない様子なのに、何故か綺麗に手入れをされている不思議な場所である。
そこはいつしか私の憩いの空間となっていた。ここには口うるさい女中もいないし、幸村の騒がしい声も聞こえない。聞こえるのは鳥の囀りだけである。縁側に座り、風に揺られる花を見る。たったそれだけの事なのにこんなにも満たされた気持ちになるのは何故だろう。
その時だった。天井から木が軋む音が鈍く響いた。それが可笑しくて口を手で隠し静かに笑えば「ちょっと笑わないでくださいよ」なんて相変わらず間延びした喋り方をする聞きなれた声が聞こえた。振り返ればそこには橙色の髪を掻く佐助が苦そうな表情をして立っていた。
「音を立てるだなんて、忍として大失態ね」
「本当ですよ。俺様、忍辞めようかなぁ」
「こら。嘘でもそういう事は言うものではありません」
私がそう言えば、佐助は場が悪そうに静かに謝った。少しだけ気まずくなった空間に、ふわりと優しい甘い香りが漂ってきた。目線を佐助から縁側の向こうの庭園へ向ければ、桃色の花弁が風に揺れ舞っていた。
「佐助、見て!何て美しい光景なのでしょう!」
「本当ですね」
目の前の光景に興奮する私を見て、少し笑いながら佐助はそう言い、私の隣に静かに腰を下ろした。その時、舞っていた花弁が膝に置いていた私の掌へとふわりと落ちた。小さくて繊細な花弁を壊さぬように、私はそれを指先で優しく掴む。
「それ、姫様に似てますね」
「え?」
佐助の言葉に私は思わず小さく疑問を発する。この花弁と私が一体どう見たら似ているのだろう。佐助の瞳には何か違うものに映っているのだろうか。そう考えていたのが伝わってしまったのか、佐助はくすくすと笑い「違いますよ」と言った。
「綺麗で、儚くて、すぐに散ってしまいそう」
そう言うと佐助の骨ばった指が私の頬を滑った。いつの間にか外されていた手袋は畳の上に置いてあり、優しい佐助の体温が直に伝わってくる。それが心地よく、目を瞑れば「こらこら、そんな簡単に瞳を閉じちゃいけませんよ」と言われ、私は目を開く。
「なぜダメなのです?」
「んー。それはまだ姫様には早いから教えてあげません」
「早いって…。私はもう嫁いでもいい年なのに」
すると佐助は困ったように眉を下げ、「そのうち、嫌でも分かりますよ」と言った。そして頬にあった温もりが離れていった。それが妙に切なく感じ、私は佐助の服をぎゅうと掴む。
「…それは、佐助が教えてくれるのですか?」
「…え?」
「瞳を閉じる理由、いつか佐助が私に教えてくれるのでしょう?」
そう問うとさっきまで平常だった佐助の顔が一瞬で真っ赤に染まった。何故か分からず、どうしたのか聞けば「…本当に姫様って馬鹿だよね」と言い、大きな掌で己の顔を覆ってしまい、真っ赤な顔は見えなくなってしまった。
20120803