雨女。その人が何かをする日には必ず雨が降るといわれる女性のことである(広辞苑より)。



 空を見上げた。
 深い青に目が眩む。晴れの日は空が遠く感じる。
 つゆりはこの数日間、親に隠れて学校を休んでいた。ものの見事にこれまでその毎日が雨だった。
 思い返せば、体育祭や文化祭といった行事はほとんど雨。出場した弓道の大会もすべて雨が降った。
 しかし今日はこうして、和弓を手に持ち、矢筒とスクールバッグを肩にかけて、廃虚と化したビルの屋上から今まさに飛び降りようとしていても、空は青いままだ。
 もしかしたら、今日は休日なのかもしれない、なんてぼんやり思う。完全に曜日感覚を失くしているようだった。何日も同じことを繰り返していれば無理もないだろう。
 学校に行けなくなった理由は、よくわからない。疲れたからとか、嫌になったからとか、そんな曖昧な表現がよく似合う。唯一好きだった部活も今は行きたくないと感じる。人と会いたくないのだ。

 つゆりが憶えている限りでは、生まれてからこのかた、まったくと云っていいほど泣いたことがない。小さい頃からそうだ。かなしいときは、代わりに空が泣いてくれるから。
 そうやってずっと、空に頼って生きてきた。そんな不器用な自分には人としてのなにかが著しく欠けているようで、物心ついた頃にはすでに他人との関係を築くことが壊滅的に下手だった。
 いつしか、泣けもしなければ笑うことさえできなくなっていた。
 そうなると、生きていることがひどくつまらなく感じるようになって、いっそ死んでしまえたら楽なのにと思うようになったのだ。
 空は、つゆりの代わりに泣きはするけれど、死んではくれない。
 この廃墟に来るたびに、いつもこうして飛び降りようと試みる。しかし結局のところ、今日もできそうにはないのだった。フェンス越しに地上を見下ろす。死にたいのに、死ねない。この臆病者、とこころのなかで自分を罵る。
 ただ風だけはやけに強くて、セーラー服の襟をいたずらにはためかせた。

 ぼうっと物思いに耽っていると、分厚い扉の向こうから階段を駆け上がる音が聴こえた。意識が無理やり引っ張りあげられ、和弓を持つ手に力がこもる。こんなところに、誰だろうか。もしかしたら、ここを管理している人かもしれない。このビルは常時、立入禁止だ。
 ギィ、と重たい扉を開いたのは見知らぬ青年だった。屋上までの階段を走ってきたのだろうか、息が上がっている。
 切れ切れの呼吸の合間、つゆりの名を小さい呟きが紡いだ。身体が震え上がる。まただ、と思った。どうして自分の名前を知っているのだろう。一体、誰なのだろう。
 最近、見知らぬ人に声をかけられることが増えた。その多くが彼女の名前を知っていた。
 眼帯の男に腕を掴まれたり、ヤクザのような人に久しぶりだなと笑いかけられたり、金髪の女に抱きしめられたり。その他にも幾度かこういうことがあった。
 たしかにつゆりは弓道の大会でそれなりに名前を残していたし、優勝すれば新聞に小さく執り上げられたりもした。けれど、いくらなんでもこれは異常すぎる。
 街で見かけても自分を呼び止めてくれるような友達なんて居ないのだ。ならば、あの人たちは誰なのだろうか。こんなのはおかしい。絶対、おかしいのだ。
 逃げなければ。
 咄嗟にそんな考えがよぎる。しかし、緊張して強ばる身体に行き場は無い。背中をフェンスにぴったりと張り付けて、つゆりは浅く呼吸を繰り返した。苦しい。
 何をしているのか、というようなことを男が口走る。とても焦っているところを見る限り、きっとつゆりが身投げするとでも思っているのだろう。
 ご名答。その通りだ。
 胸のうちで吐き捨てるようにつゆりは呟く。それから、自分の背丈よりも長い弓の切っ先を、まっ直ぐ男に突き付けた。彼はこれ以上近づけない。
 上手く息が出来なくて苦しい。威嚇するように弓を向けたまま気持ちだけ後ずさった。痛いほどフェンスに背中を押し付けた。これ以上は、もう無理だ。
 その時だった。
 ぎしり、針金の軋む歪な音がつゆりの鼓膜を震わせたと思うと、次いで轟音。弾かれるような衝撃とともに体勢が傾く。フェンスに頼っていた身体は立て直すことができなくて、足が宙を踏んだ。老朽化した螺子はつゆりのかけた圧力に耐えられなかったのだ。
 男がつゆりの名を叫び、手を伸ばす。けれど、もう間に合わない。七尺三寸のこの距離がなにより致命的だった。つゆりは空を切る手を見遣る。
 あなたが来なかったら、きっと私が落ちることもなかったのだろうけれど。
 視界いっぱいに雲ひとつない鮮やかな青空が広がる。ああ、やっと死ねるのだ。痛いだろうか。でも、すぐ楽になれるはず。少なくとも、このまま生き続けているよりはずっといい。
 急降下。轟々と唸りながら風が上へ上へと昇っていく。耳を劈くような歪んだ金属音が背後に聞こえて、外れたフェンスがアスファルトに叩きつけられたのだと悟った。
 誰かを巻き込んでいなければいいけれど、そんなことを思ったのを最後につゆりの意識はプツリと切れた。




青空にさよなら

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