戦の準備が始まった。つゆりたちが甲斐へ戻ったその次の日から、館内には忙しなく往来する足音が絶えず響き、廊下ですれ違う兵士たちの表情は普段の柔らかさを失っていった。
 時が流れていくにつれて雨音が強くなる。つゆりは自分の部屋でひとり、膝を抱えて座り込んでいた。こうでもしていないと不安に押し潰されそうなのだ。
 幸村が自分だけを馬に乗せて逃がしたとき、つゆりは自らの無力さを痛いほどに知った。幸村と佐助が戻ってくるのをじっと待つ間、自分もいっしょに闘えたらと幾度も考えた。
 なにもせずに待っているだけだなんて、嫌だ。守られるばかりの荷物になんてなりたくはない。自分がのうのうと生きている間に、大切な誰かが傷つくだなんてことに、もう耐えられないのだ。
 ぎゅっと両手を握りしめてつゆりは立ち上がった。駄目かも知れない。呆れられるかも知れない。それでも、行動せずにはいられなかった。幸村と佐助と話さなければならないと思った。

 幸村の部屋の前、ひとつ深く息を吸って立ち止まる。懐がいやに重かった。利き手が無意識に小袖の重なる襟を掴む。
「幸村さん」
 襖の向こうに声を投げかけた。ややあって目の前の襖が横に滑ると、不思議そうな表情をした幸村が顔を出す。
「つゆり殿? いかが致したのだ」
「お話が、あって」
「話、でござるか。ともかく、中にお入りくだされ」
 部屋のなかへとつゆりを促すと、幸村は静かに襖を閉めた。
「佐助もおりまするが、」
「だいじょうぶです。むしろ、佐助さんにも、聴いてもらえたら」
「左様でござるか」
 佐助、と幸村が天井に向かって声をかける。つられてつゆりも天井を見てみた。けれど、はいはい、という返事が聴こえたのは背中のほうからで、振り返ったときにはもう佐助がこちらを見ているような状態だった。
「どうしたの、つゆりちゃん」
 佐助がつゆりに話を切り出すきっかけを与える。思い出したように、どうぞ座ってくだされ、と幸村が云った。そのことばに従ってその場で正座をする。それから、
「私も、戦に連れて行ってください」
 開口一番、そう云い放った。
「は? なに云ってるの?」
 先に口を開いたのは佐助だった。その表情にはありありと訝しげな色が浮かんでいる。幸村はつゆりの対角線上に腰を降ろしたまま、驚いたように固まって動かない。
「……私も、いっしょに戦わせてほしいんです」
「そんなの、」
「なっ、なりませぬ!」
 やっとつゆりのことばを呑み込んだらしい幸村が、慌てたように佐助の声を遮った。存外、口調は強い。
「一体、なにをお考えか! おなごが、ましてやつゆり殿のようなお方が、戦場に出るなどと!」
「それは、どういう意味ですか……?」
「そのままの、」
「つゆりちゃんみたいな戦のいろはも知らないようなただの女の子に、ってことだよ」
 幸村を遮って佐助が答える。わざとらしく棘を見せる彼のことばに、つゆりはゆっくりと瞬きをした。
 ここで折れてはいけない。彼らのやさしさに、甘えてはいけない。
「お願いします」
「つゆり殿を危険に晒すことなど、できませぬ。某らを信じ、待っていてくだされ」
「……危険だってわかっている場所へ行く幸村さんたちを、ただ待っているだけなんて、嫌なんです」
「つゆり殿、」
「そんな私なら、私は要らない」
 握っていた小袖の合わせ目から懐刀を取り出す。幸村の鼈甲色の瞳が愕然と見開かれるのを感じながら、光る刃を自分の首に宛がった。
「ちょっ、つゆりちゃん! どこからそんなもの!」
「わ、私はっ、」
 ことばが喉につかえてうまく声にならない。それでも伝えたいことがあった。
「私は、死にたかったんです、ずっと」
 この世界に来ることになったのは、私がきっと死んでしまったからなんです。私のもと居た世界での最期の記憶は、身投げした瞬間に見た目の眩むような青空でした。私は死んだんだって、やっと死ねたんだって、思ったのに、気づいたときにはここに居ました。ここへ来てからもしばらくは、ずっと死にたいって思いながら生きていました。それでもまた死ぬことができなかったのは、いまでは生きたいとすら思えるようになったのは、幸村さんや、佐助さんが居たからです。
「……それなのに、命を落とすかもしれない戦に行くおふたりを、ただ待つことなんて、できないんです」
 途切れ途切れになりながらも、いまの自分の想いをまっ直ぐに紡いだ。ことばを探す必要はなかった。次から次へと、伝えたい気持ちが溢れでてきて止まらなかったのだ。なにも飾ることなく、ひたむきに紡ぎきった。
 少しの間、三人のうち誰も声を発さなかった。呼吸さえ忘れてしまったかのように、しんと静まり返っている。雨の音だけが夜の空気を震わせて。
 そんな静謐さにそっと挟み込まれたのは、幸村の高くも低くもない穏やかな声だった。
「つゆり殿、懐刀を、渡してくだされ」
 幸村の大きな手のひらがつゆりに差し出された。そこに強いるような仕草はなく、至って謙虚につゆりがうなずくのを待っている。しかし、つゆりもそこは従うわけにはいかなかった。
「幸村さんが、いい、って云ってくれるまで、返せません」
 懐刀を握る手が力む。
「……ふたりをこのまま見送るくらいなら、私は、いまここで首を斬ります」
「あのね、つゆりちゃん」
 頑なに首を横に振るつゆりに、いままで静かに話を聴いていた佐助がすこし躊躇ってから前へ乗り出した。それを幸村は短く諫める。
「よい、佐助。つゆり殿のお気持ちはよくわかり申した」
「旦那?」
「某も佐助も生きて戻る。それでは、駄目でござるか」
「……おふたりの意志なんて、関係ないんです。ぜんぶ、私の勝手なわがままです」
 赦してください、と小さく零す。
「身勝手だって、わかっています。本当にいままでよくしてもらって、大変なこともあったけれど、なにひとつ不自由なく、与えてもらいました。……感謝しても、しきれません」
「某らは当然のことをしたまでにござる。かように感謝されることではこざらん」
「それでも、その『当然』に、私は何度も救われました。些細なことが、ひどく嬉しかった」
 思い返す。何気ないことばにどれだけ救われてきたことか、彼らの背中にどれだけ守られてきたことか。数えきれないほどの大切なひとつひとつが、陽だまりのようにあたたかくこの胸にうずくまっているのだ。それが自分にとってどれほど嬉しかったか、ことばでなんて説明しようがなかった。
「いっしょに戦いたいんです。私も、この命をかけて」
 幸村も佐助も口を閉ざしている。中途半端な気持ちでこのようなことを口にしているわけではないことなど、ふたりはわかってくれているのだろう。この決意が固いことをちゃんと知ってくれているだろう。
 しかし、だからこそ、それを安易に受け入れることもまた、難しいのだ。そのことはつゆりもよく理解していた。
「……わかり申した」
 長かったのか短かったのかさえわからないような沈黙ののち、硬い声音が云った。佐助が目を瞠って幸村を見る。幸村の瞳はまっ直ぐにつゆりへと向けられていた。
「お連れ致そう。この幸村が命をもって、つゆり殿をお守り致す」
「……幸村さん、」
「ただひとつ、約束してくだされ」
 幸村がふたたび手を差し出す。つゆりはほとんど無意識にその手のひらに懐刀を置いていた。
「必ず、ともに生きてここへ戻ると」
 それが守れぬならば、やはり連れては行けませぬ。
 幸村が静かに告げた約束に、つゆりもまた静かにうなずいた。それを見届けて、幸村は初めてその表情に笑みを浮かべた。どこか痛々しく、こころもとなげな。
「つゆり殿は、つゆり殿のままでいてくだされ」
 そのことばの真意がよく呑み込めないまま、つゆりはただ、ありがとうございます、と小さく頭を下げた。




決意のその先に

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