忍の相手は忍に任せ、幸村は松永とその刃を交えた。火薬と宝刀を巧みに扱う戦い方はいささか厄介だ。下手に間を詰めれば火傷しかねない。
「随分と、あの雨神子にご執心のようだ」
 揶揄するように目を細める松永に、しかし幸村はなにもことばを返さなかった。代わりに、雨粒さえも焼き焦がすような猛焔が赤漆の二槍を包む。
 躯の奥底から沸き上がってくるこの暑さの正体は幸村だけが知っていた。まさにこの渦巻く火焔ごとく自分は憤っているのだと、はっきり感じることができた。
「烈火……!」
 松永の体躯を目掛け槍を突き動かす。そのうちのひと突きが横腹に深々と刺さった。槍から腕へ生々しいほどに伝わる重圧。これは、致命傷になるだろう。
 槍を引き抜くと、松永の身体が後ろへとよろけた。自らの手でたしかめるように脇腹へ触れると、小さく笑いを零す。泥濘んだ地面に滴る赤が滲んだ。
「……恐ろしいな、我を忘れた虎は」
「某は正気にござる」
「一体、彼女のなにがそこまで卿を奮わせるのか、知りたかったものだ」
 しかし、と松永は呟いた。
「さらばだ。遺体は残さない主義でね」
 赤に濡れた指が小気味好い音を鳴らした。刹那、幸村の視界に広がる木々が凄まじい轟音とともに爆ぜる。突風が巻き上がり、森が目覚めたようにざわめく。薄暗かった景色は一瞬にして眩いほどの焔に包まれたのだった。
「佐助っ!」
 はっとして幸村は忍の名を叫んだ。この爆発を避けることができただろうか。胸のうちに不安が駆け巡ったのも束の間、しばし待つと佐助の声が聞こえてきた。
「旦那! だいじょうぶ?」
「ああ。佐助は」
「ちょっとやられたけど、問題ない。風魔も逃げたみたいだ」
「そうか」
 疲労を滲ませた息をつくと、幸村は燃え盛る木々に背を向けて歩き出した。
「急がねば。つゆり殿が待っておられる」
「つゆりちゃんを先に逃がしたのは正解だったかもね」
「そうだな」
 下手をすれば、この爆発に巻き込みかねなかった。考えただけで背筋に冷たいものが走る。本当によかった。
 黒々とした煙を含んだ雨に、幸村は目を瞬いた。きっと、彼女は自分たちを心配しているに違いない。

 つゆりは息をひそめて、才蔵とともに木陰で幸村と佐助を待っていた。ふたりともちゃんと無事だろうか、怪我はしていないだろうか。あの爆発は平気だっただろうか。考えるときりがなかった。
 やがて、ふたつの影が灰色の雨の向こうに浮かび上がった。紛れもなく、つゆりの胸を騒がせていたふたりだ。
 じっと待っていることなどできなくて、つゆりはほとんど反射的に草陰から飛び出していた。雨神殿、と才蔵の少し慌てたような声が後ろから追いかけてくる。
「幸村さん、佐助さんっ」
 視界が煙るなかでふたりを見とめて、思わず声を上げた。幸村も佐助も、無傷というわけではなかったけれど、その足取りはしっかりとしている。ふたりはつゆりを見つけると、ゆるりと笑って見せた。
「お待たせ致した、つゆり殿」
「だ、だいっ、だいじょうぶですか?」
「平気平気。旦那も俺様も、軽い傷だけだよ」
 慌ててことばを詰まらせるつゆりに、そんなに心配しないでよ、と佐助がはにかむように笑った。
「さ、さっき、爆発音がしたから、」
「あれは松永殿が、遺体は残さぬ主義だ、と」
「じゃあ、自分から……?」
「某も驚き申した」
 幸村が遠くを振り返った。木々の間からはまだ煙が立ち上っているのが見える。それから幸村は視線をつゆりに戻すと、先を急ぎましょうぞ、と云った。
「森を抜けるまであと少しにこざる」

 森を出たところの小さな村で、宿を取ることにした。日が沈んでいった西の空はまだ仄かに橙を帯びていたけれど、誰もが心身ともに疲労を抱えていたのだった。
 借りた部屋のうちひとつに幸村が、もうひとつの部屋につゆりが眠ることになった。佐助は他の忍たちとともに身を隠すのだと云う。
「おぬしも疲れておろう、佐助」
「この近くに忍小屋があるんだ。才蔵たちもそこで休ませるよ」
「なんと。かようなところにまで隠れ小屋をつくっておったのか」
「なにかあったときのためにね。見張りは交代でつくから」
「うむ。頼んだぞ」
「それじゃ、おやすみ」
 ひらりと手を振って佐助は闇に溶けていった。隣で静かに話を聞いていたつゆりが小さく、おやすみなさい、と呟いたのが幸村にも聞こえた。おそらく、佐助にも聞こえていることだろう。
「つゆり殿も、おやすみになってくだされ」
「はい……おやすみなさい、幸村さん」
 つゆりの黒曜石のような瞳が暗闇のなかで幸村を映す。目を逸らせないまま幸村がうなずくと、つゆりは小さく会釈をして借りた部屋へと入っていった。
『一体、彼女のなにがそこまで卿を奮わせるのか、知りたかったものだ』
 不意に、松永の低い声が耳の内側に蘇った。なにが、と問われても答えなどいつまでも出そうにない。幸村自身もそれがどうしてなのかわからないのだ。
 ただひとつ云えることは、たしかにつゆりは自分にとって特別な存在であるということだった。
 なぜそう思うのか、『特別』とは一体どういうことなのか。漠然とした意識だけで、そういったところは曖昧だ。
 それでも、自分の敬愛する師である信玄への『特別』と、突然に空から降ってきていまや隣に居ることが当たり前となったつゆりへの『特別』は、まったくの別物だということは理解していた。

 翌日、まだ朝露も降りていないような早朝に幸村たちは出発し、その日のうちに甲斐の躑躅ヶ崎館へと到着したのだった。久しぶりの甲斐の地、自分が帰るべき場所に、つゆりはひどく安心感を覚えた。
 女中や足軽兵たちに、おかえりなさい、とあたたかく迎え入れられる。幸村にするそれと変わらない対応につゆりは毎度ながら気後れしてしまうのだが、いまはそれが心地好くすらあった。やっと帰ってきたのだと、実感して嬉しく思う。たとえそれが仮初めの平穏であったとしても。
「お館様! 幸村、ただいま帰りましてございまする!」
「猿飛佐助、ただいま帰りました」
「つゆりです、た、ただいま帰りましたっ」
 湯浴みを済ませて着替えたのち、報告のために信玄の居る間へと三人で向かった。つゆりの声までしっかりと聴いてから信玄は、入れ、と促した。
「三者とも、ご苦労であった」
 労うように三人の顔を見回す。幸村がピンと背筋を伸ばして信玄の向かいに正座した。佐助とつゆりもその少し後ろに同じように控える。
「長曾我部殿との締結、果たして参りました」
「よくやった、幸村。今宵はおぬしも、佐助もつゆりも、しかと休むがよい。……と云いたいところだが、」
「なにかあったのでございますか?」
 躊躇いがちにことばを切った信玄に、幸村が訊ねる。胸騒ぎがした。
「うむ、つい先ほどのことよ。竜の倅から早馬が届いての」
「政宗殿から……何用にございましょう」
 慎重な声が先を急ぐように促す。良い報せでないだろうことはつゆりにも容易に想像できた。とは云え、聴かないわけにはいかないのだ。こく、と幸村が喉を鳴らすとほぼ同時に、信玄の口が重苦しく開いた。
「織田が、動き出したようじゃ」
 戦だ。つゆりは思わず俯いた。元親との和睦がなんとか間に合ったことを良しとするべきか、あと一歩早ければ綿密な策が練られたのにと嘆くべきか、決めかねたからだ。
 ともかく、時間がないことは明らかだった。





灰色の雨は逸る

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