飛沫を巻き上げて船は海面を滑るように進む。つゆりはわずかに身を乗り出して出発地を見つめた。もう随分と土佐は遠くなってしまっていて、大陸は霞がかったようにぼやけている。
 これから、甲斐に帰るのだ。
「こら、あぶねえぞ」
 背後から声をかけられた。振り返ると、元親がからかうように笑った。
「もう船酔いはしねえのか?」
「だっ、だいじょうぶ、です」
「どうだかなあ。まだ出発したばかりだぜ」
 同じように船縁に腕を預けて隣に並ぶ元親に、つゆりはもう一度、だいじょうぶです、と繰り返す。
「とても、気分がいいんです。たくさん寝たし、食べました」
 毛利元就の件から三日。心配性としか例えようのない佐助と幸村につきっきりで看病されたつゆりは、身もこころも健やかだった。
 疲労で倒れただけで、症状としては軽いものだったのだけれど、それでも大事をとって三日も休息をくれたのだ。気分がよくないはずがない。心配をかけてしまって申し訳ないと思えど、謝ってもまた彼らを困らせるだけだった。
「……私に、なにができますかね」
 この小さな身で、こころで。一体なにを彼らに返せるのだろう。
「傍で笑ってやればいいんじゃねえか」
 自分の手を見つめるつゆりに、元親は波のない水面のように静かな声で云った。
「わらっ、て……」
「あんたはあんまり、笑わねえからな」
「……それは、その、」
「なにもいますぐにとは云ってねえさ。いっしょに居て、楽しかったり嬉しかったりしたら笑ってやればいい。こころの底から、な」
 それがきっと、この戦乱では支えになるだろうよ。
 潮風が透き通る銀の髪をさらう。つゆりはその眩しさにすっと目を細めた。大きなひとだ、と思う。身体だけでなく、こころも、海みたいに大きなひとだ。
「それが難しかったら、名前を呼んでやるだけでいいし、手を握るだけでもいい。あんたが傍に居てくれたら、あいつらはそれでいいんじゃねえか」
「……あいつら、」
「ん? 真田と忍の話じゃねえのか」
「あ、いえ……よく、わかったなと、思って」
「わかるさ。あんたらを見たら、すぐわかる」
「そう、ですか」
「ああ。好きなんだな、って」
 やさしい響きに、なぜか頬に熱があつまる。ごまかすように空気を深く吸った。潮の匂いが肺をいっぱいに満たす。
「つゆりはもう気づき始めてるはずだぜ」
「なにを……」
「どういうときに自分がこころから笑うことができるのか」
 つゆりにはその意味を少しばかりはかりかねた。
 幾度か感じた、頬のゆるむ感覚。それが、どういうときに、と云われても一貫した共通点なんて思い当たらない。普段、自分がどんな表情をしているのかさえとくに意識していないというのに。
「ああ、そうだ」
 ふいに元親が、思い出したように口を開いた。
「漁、連れていってやれなかった。わりぃな」
「あ……」
 風魔に拐われる少し前、そんな会話をしたことを思い出す。雨がしとしとと落ちるなかで交わした、戯れのような口約束を彼はちゃんと覚えていたのだ。
「いろいろ片付いたら、また四国に来いよ。今度こそ連れていってやっから」
「……はい」
「でっけえ獲物釣り上げて、宴を開こうぜ。野郎共も喜ぶだろうよ」
 にかりと歯を見せて笑う元親に、つゆりはひとつ首を縦に振った。
 いまが、戦に向かう準備の途中だなんてことを忘れてしまうくらいに、風も、波も、降りつづける雨さえも穏やかだった。

 甲斐国のすぐ近隣である遠江まで、元親は数日をかけてつゆりたちを送ってくれた。至極ゆるやかな船旅ではあったけれど、慣れないものにはやはり気を張ってしまう。すとん、と降り立った久しぶりの土の感触につゆりは小さく息を吐き出した。
「じゃあな、真田。つゆりも」
 大きな手のひらがつゆりの頭に軽く乗せられた。思わず首を竦めたつゆりに、元親は悪戯に笑う。
「あんまり、無理すんなよ」
「あ、ありがとうございます……」
「誠、世話になり申した。事の次第は追ってお報せ致しまする」
「ああ、頼んだぜ」
「では、失礼致しまする」
 ひとつ礼をする幸村に、慌ててつゆりも頭を下げる。
 これでしばらく、元親たちとはお別れだ。越後や奥州、京のときも感じていたことだけれど、とてもよくしてくれたひとたちと離れるのは少しばかり淋しい。出会いがあればその分、別れも同じ数だけやってくる。わかってはいても名残惜しいと感じてしまう。
「つゆり殿? 如何致した」
 徐々に遠くなっていく要塞・富嶽を見つめていたつゆりに、幸村が問いかけた。
「……信じられないんです」
 ぽつり、と土を濡らすひと雫のようにつゆりは呟いた。「これから、戦だなんて」
 無意識に握りしめた唐傘の柄。その手に幸村の手がやさしく重なった。
「強く握りすぎて、指先が白くなっておられる」
 ゆるりと溶かすように一本一本、その指をほどかれる。不思議と強ばった肩の力が少しずつ抜けていった。
「つゆり殿のもと居た世は、戦がないのでござったな」
「……はい」
「不安に思うのも仕方ありますまい。しかし、あまり気負わずに。まだ時間もありますゆえ」
「そう、ですよね」
「それに、つゆり殿は某がお守り致すと申したばかりにござる。もうお忘れか?」
「い、いえ、覚えています。ちゃんと、信じて、います」
「ならば、ようござる」
 参りましょうぞ、と目を細める幸村に、つゆりはたしかな意思をもってうなずいた。
 そうだ。臆病なままではいられない。守られてばかりでは、いられないのだ。自分が不安がっていて、どうするというのか。元親が云っていたように、自分はこのひとを支えられる存在になりたい。
 愛馬に跨がった幸村に手を差し出される。傘を畳み、その手をしっかりと握ってつゆりは幸村の前に乗馬した。
「そういえば、佐助さんは、」
 泥濘のなか軽快に走り出してやっと、佐助が見当たらないことに気づく。船には乗っていたはずだけれど、降りた直後から姿を見ていない。いつだって気配を隠して佇んでいるため、視界に入らなければそこに居るのかどうかさえも、つゆりにはわからないのだけれど。
「才蔵とともに身を隠しながら行動しておるゆえ、心配ござらぬ」
「才蔵さん、ですか」
「先の件で少々傷を負ったのだ。大事ないが、まだ体調が万全とは云えぬらしい」
 実のところ回復を待ってから土佐を出たかったのだが、と幸村が声に陰を落とす。
 つゆりはふと、元就が云ったことばを思い出した。風魔が武田の忍を見つけた、と。いまごろは息の根もないだろう、と。そうは云っていなかったか。
「あ、あの、」
「つゆり殿の非ではござらぬ」
 云いたいことを察したように、幸村はその先を遮った。
「才蔵が未熟だっただけのこと。元より今回の件、つゆり殿に非は一切ありませぬ」
「そんなことは、ないです。一切ないだなんて、そんなこと、」
 首を横に振り、声を絞り出す。自分に一切の非がないだなんて、そんなのは嘘だ。綺麗事だ。むしろ、自分がすべての元凶ではないか。
 俯くつゆりに、なれば、ひとつだけ、とやわらかな声がそそがれた。
「ひとつ上げるならば、つゆり殿が一度でもその希望を絶とうとしたことにござる」
「幸村さん……」
「それの他は、つゆり殿が気に病むことではござらん。すべて無事に収まったのだ」
 この話は終わりだ、とでも云うように語尾を強める幸村に、つゆりは口をつぐむ他なかった。
 すべてを赦してくれるような彼のやさしさに、いつまで浸かっていられるだろう。後ろへと流れていく緑の景色から、馬の靡く鬣に視線を移して考える。
 こんなことでは駄目だ、とさっき胸に秘めたばかりの決意を思い起こした。導かれるだけではなく、自分の意思で道を選んでいこう。道がなければ、つくればいい。

 雨で霞む視界のなか、この先に潜むひとつの黒い手にふたりが気づくことはない。




海原を背負って

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