長曾我部元親と毛利元就の一時停戦を結びつけることに成功し、しかと親書も受け取った幸村たちは、一度、土佐へと戻ることとなった。
 元就は停戦の条件として、つゆりがこの地から一刻も早く立ち去ることと、もうひとつ、毛利軍は此度の戦には一切の手も貸さないことを断言。加勢してもらえればこれ以上のことはなかったが、しかし贅沢も云っていられない。停戦を受け入れてもらったことで、元親は気兼ねなくこちらと手を結ぶことができるのだ。その状況が生まれただけでも、ありがたいとする。
 幸村は自然と頬をゆるませた。
 長曾我部軍との締結が相成った。自分はしっかりと、政宗に課せられた仕事を成し遂げることができたのだ。政が苦手などとは云っていられないが、正直どうなるものか不安であったため、胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
 もうひとつ、幸村を心底ほっとさせたものがあった。土佐へ着いてから明らかにぎこちなかったつゆりの態度が、以前のように戻ったのだ。
 否、以前よりももう少し、親密になったのやもしれぬ。
 もとより信頼されていないわけではなかったのであろうが、さらに関係を深めることができたように幸村は感じていた。おそらく、あの約束のためである。
 つゆり殿がもう二度と、死など考えなくともよいよう、某が必ずお守り致そう。
 つゆり殿は、某のことをもっと頼って下され、信じて下され。
 いま思い返すと、顔から火が出るのではないかというほどに恥ずかしい科白ではあったが、そのことばに偽りなどは微塵もない。そしてつゆりも、深い夜の色をした瞳でまっ直ぐに幸村を見据えて、こくりとひとつ、うなずいたのだ。
 この手で彼女を守りたい。いや、守ってみせる。
「旦那」
 頭上から声がしたかと思うと、もうすでに目の前には部下である忍が降り立っていた。ずいぶんと深く思慮へ沈んでいたらしい。
「佐助か。どうだ、才蔵の様子は」
「もうしばらく安静、ってところだね」
「佐助も、怪我は大事ないのか」
「俺様はまあ、なんとか」
「そうか、よかった。苦労をかけたな」
 幸村たちが元就のもとへと向かう途中、佐助は立ちはだかった風魔を引き受けてくれたのだった。時間稼ぎ程度にしかならないぜ、と云った彼の表情は真剣そのもので、それだけで伝説の忍と呼ばれるその実力がどのようなものなのか大方察しがついた。すまぬ、とひと言、佐助にその場を預けて幸村はつゆりのもとへ、元親は元就のもとへと向かったのである。
「なに云ってんのさ。それが俺たちの仕事だろ」
 旦那もよくわかっているはずだ。
 助かった、と零す幸村に、佐助はおどけることもなく至極真面目に云った。幸村は静かに息を吐き出す。
 わかっていないのは、一体どちらか。
「ここを出るのは、才蔵が回復してからだ」
「……はあ?」
「もう日も暮れる。佐助、おぬしも少し休め」
「ちょっ、旦那、あんた自分がなに云ってるか」
「長曾我部殿も承知して下さった」
「えっ」
「俺はひとりたりとて見捨てるつもりはないぞ。才蔵も、おぬしもだ、佐助」
 よいな、と云い捨てて、幸村は目的の部屋へと向かった。呆れたようなため息がうしろから聞こえたが、振り返ることはしなかった。

 幸村の背中を見て、佐助はやれやれと人知れず首を振った。
 真田の旦那は甘い。
 才蔵が動けるようになるまで、少なくともあと数日は必要だ。それを、待つ、だなんて。信じられないことばだった。
 一時停戦を承知してくれるのなら迅速に四国から出ていく、という条件をあろうことかこちらから突きつけているのだ。これはつゆりが咄嗟に気を利かせて口走ったものらしいが、とにかく、日輪を崇拝する毛利元就には効果絶大だった。それが叶わぬとなれば、停戦を撤回するということにもなりかねないのではないか。
 ひとつ、ため息をついた。
 どうしたものか、と考える。才蔵も覚悟はできているはずなのだ。というより、そうでなければおかしい。俺たちは忍だ。足手まといになるならば、捨てられるのが道理だ。
 しかし、幸村はそれをしようとはしない。断固として認めないのである。それは信玄も同じで、武田軍のそういった草の者の扱いに、佐助は幾度となく戸惑った。無論、諦めるのはいつだって佐助のほうなのだが。
 ましてや、もう元親にまで話を通してしまったとなれば、佐助の出る幕などない。稀に発揮されるその行動力と素早さには感心すら覚えた。佐助が考えていることなど幸村にはすべてお見透しだというわけだ。
 まったく厄介な主である。けれど、それがまた心地好いと思うのも、たしかだった。だいぶ絆されている。自分でもおかしなことに、それを認めている。
 それに、どちらにせよ、まだ出発はできそうになかった。
「……粥でもつくりますかね」
 誰にともなく呟いて、佐助は廚へと足を向けた。もちろん、勝手に借りるわけではない。許可はもうとってある。

 元就に軟禁されていた半日間、食べ物どころか水さえ口にしていなかったつゆりは、精神的疲労も相俟って土佐へと戻る船のなかで倒れたのだった。
 幸村の慌てようはそれはもう酷いものであったが、佐助だって驚いた。
 よくそんな体力であの毛利元就に啖呵を切れたものだ。
 主である幸村も相当に無茶をするひとではあるが、つゆりもなかなかではないか、と思う。出会った頃の絶望をたたえた暗い瞳からは、想像もつかないような強さが、確実に彼女のなかで芽生え始めていることを知る。
 少しずつ、少しずつ、つゆりなりに前へと進んでいるのだ。
 自分もできることなら、あの場に居合わせてみたかった。つゆりがどんな目をして、休戦を受け入れるまで自分はここから出ていかないと、元就に云い切ったのか。この目で、耳で、感じてみたかった。
 襖を開ける。片手に持った盆から上がる湯気の向こうに、先客が見えた。自分に宛てられた客間へ戻ったわけではないことに気づいてはいたが、またここへ来ていたらしい。
「さ、佐助」
 幸村が決まり悪そうに呟く。さっきの今だ、無理もない。その上、ここで鉢合わせるのはもう三度目。幸村はつゆりの部屋と才蔵の部屋を先ほどから忙しなく行ったり来たりしているのだ。
「心配なのはわかるけどさ、少しは自分の身も案じて下さいよ」
「俺は、平気だ」
「怪我してんでしょうよ」
「この程度、造作もない」
 正座した膝のうえで拳が強く握られる。伸びた背筋とは裏腹に、その瞳には僅かに陰が差していた。目線はひたむきにつゆりへとそそがれている。
 佐助は小さく息をついた。
 ふたりにしてあげるか。
「お粥つくったから、冷めきっちゃうまえにつゆりちゃんのこと起こして、食べさせてあげて」
「どこへ行くのだ、佐助」
「まだまだやらなきゃならないこと、残ってるからね」
 頼んだぜ、と云い残して佐助はその場から姿を消した。
 そうだ。まだまだ、やらなければならないことが山ほどある。今回の誘拐の件、どうにも怪しい。納得がいかない。
 つゆりちゃんを拐ったのは本当に日輪のためだけか?
 風魔を雇ってまで警戒するほどのことだったか?
 なにか別の思惑があったのではないのか、と佐助は考えていた。不可解な点があまりにも多い。疑念は尽きなかった。

 開け放たれた障子から夜風が流れ込んできた。雨の匂いをたっぷりと含んだ空気はやわらかく、しっとりと幸村の頬を撫でる。
 つゆりの瞼は依然として閉じられたままだった。幾度か目を覚まして、少し水分も摂ったらしいが、やはりまだどこか苦しそうだ。
 つゆりが拐われたと聴いたとき、居ても立ってもいられなかった。どうか無事でいてくれと、願わずにはいられなかった。その身になにかあったらと、気が気ではなかった。
 もしかしたら彼女を失うのではないかと、そう思ったのだ。
 白い頬にそっと触れる。滑らかな肌に自分の指の無骨さが殊更に際立った。それでも、触れずにはいられなかった。触れて、つゆりがいまここで、たしかに息づいていることをこの手に刻みつけたかった。
 いつもだったら、もう少し血色がよくはなかっただろうか。
 行灯の微かな明かりでさえ、いまのつゆりの状態は幸村にそう思わせる。それほどまでに彼女の精神と体力は削られていたのだ。幸村は唇を痛いほど噛みしめた。
 無理をさせてしまった。恐ろしい思いを、させてしまった。
「……ゆき、むら、さん」
 つゆりの唇が小さく幸村の名を紡いだ。我に返った幸村は、慌ててその頬に触れていた手を引っ込める。起こしてしまったか。
 傍らに置かれた小さな鍋に目をやる。よく煮えた粥は不規則に行灯のやわらかな灯りを反射していた。湯気はもう佐助の持ってきたときの半分ほどになっている。ちょうどよく冷めてきた頃だろう。
「つゆり殿、佐助が粥を作ったのだが、食べられるだろうか」
 どくどくと早鐘を打つ心の臓を抑えつけ、平静を装い、声をかける。が、一向に返事がない。
「つゆり殿?」
 再度呼びかけてみるも、やはり声が返ってくることはなかった。起こしてしまったわけではないのだと安堵する。
 なれば、いまのは寝言だったのだろうか。
「一体、如何様な夢を見ておられるのだ、つゆり殿」
 無意識に口もとがほころんだ。胸のうちに湧き上がる、形容し難いあたたかさをなんと呼べばいいのか、幸村はまだ知らない。
 つゆりの髪を、やはり無骨な手で、できる限りやさしく撫でてみる。
 起こすのはもう暫しあとでもいいだろう。粥ならもう一度、温め直してもらえばいい。
 云い訳のように幸村はこころのうちで呟いた。心地好さそうに深く眠る、彼女のその夢を邪魔したくはなかったのだ。




人と夢はいつも

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