雨足の強まる森のなかを、佐助はひたすらに走っていた。城に残してきた一部の忍の者を除いて、忍隊総出でつゆりの捜索にあたっている。
 島の外れ、木々の生い茂る森の奥、つんとした微かな鉄の匂いが佐助の敏感な鼻をついた。血だ。嫌な予感が頭をよぎる。もっとも、血の匂いが良い報せを運んできた試しなどないに等しいのだが。
 五感を研ぎ澄ませ、何者が近くにいるのかを探る。だんだんと近づいてくる隠しきれていないその気配は、しかし、仲間のもののようだった。
 がさり、と草影を揺らしてなにか黒い塊が佐助の前へと転がり出る。佐助は思わず息を呑んだ。
「才蔵……!」
 現れたのは他でもない、つゆりの警護にあてていた霧隠才蔵だった。身体には至るところに深い、あるいは浅い刃傷。血の匂いは彼自身のものだった。
「長、」
 掠れた声で呼ぶ才蔵に、佐助は急いで駆け寄った。満身創痍ではあるが、その瞳はしっかりと佐助を見据えている。
「なにがあった、才蔵」
「……雨神殿、が、厳島に」
「厳島?」
 荒い呼吸の合間、苦しそうに零される声を聴き逃すまいと佐助は耳を傾けた。
「おそらく、毛利元就のもとに」
「どうしてまた……」
「わかりません。ただ、伝説の忍も、ともに」
「なに?」
 佐助の眉間にわずかに皺が寄った。伝説の忍、風魔小太郎がなぜこのようなところに居るのか。佐助の知る話では北条に仕えていたはずだ。厄介だな、と思う。
「その傷も、風魔に?」
「はい……撒くのが、精一杯でした。しかし、暗器に、毒が仕込んであったようですから、追わなくとも、放っておけば、もう、じきに、息絶えるのでしょう」
「なに云ってんだ」
 ほら、と佐助は懐から解毒剤と止血剤を取り出す。佐助自ら薬草を調合してつくったものだ。
「気休め程度だけど、無いよりはマシだろ」
「申し訳……」
「いいから、とにかく安静にしてて。死んだりすんなよ」
 人目に付きにくい葉陰へと移動させて、その身体を横たえさせる。それから佐助はすぐに地を蹴った。
 まずはこの件を幸村へ伝えなければならない。情報も少ないうえに、相手がかの智将とあれば勝手な判断で動くこともできない。また、安芸へと渡るには船も必要だった。

 つゆりは、静かに浅い呼吸を繰り返した。ひと筋の陽の光さえ差し込むことのない暗い座敷牢で、どうするべきかを考えていた。
 幸村たちは、いまごろ自分を探しているのだろう。こうして呼吸を繰り返している間にも、誰かが危機にさらされているかもしれない。そう思うと、息が詰まるようだった。
 自分が幸村たちの手を煩わせる以外の何者でもないことは、つゆりなりにわかっていた。これ以上、迷惑をかけたくなくて、どうしたらこの手だけで脱出できるかに、ひたすらこころを砕く。
 そして行きつく先は、やはり闇なのだ。
 ここから抜け出すことは、どうにもできそうにない。それは、数刻ごとに代わる見張りの鋭い目が物語っていた。けれど、このまま生きていても、なにかよくないことが起こるに決まっているのだ。
 毛利元就のあの科白が忘れられない。つゆりには利用価値があるのだと、淡々と紡がれたことばが、つゆり自身を苦しめた。幸村や佐助、武田軍、さらには他軍を巻き込みかねないそれに耐えられるほど、つゆりは強くない。
 しかし、刃物などここには見あたらなかった。舌を噛み切るほどの余力もない。座敷の隅の、香が炊かれていた壺を割って使おうかとも思ったが、無闇に大きな物音は立てないほうがよさそうだ。気づかれてしまえば、見張りや拘束がさらに厳しくなるのは目に見えている。
 自分を殺める方法さえ、見つけられないのか。柱を背に、天井を仰いだ。なにもできない無力な自分がただただ赦せなかった。

 どうしようもない息苦しさに身じろぎすると、カツン、と小さな物音が後頭部から鳴った。一瞬、なんだろうかと訝しく思ったが、すぐにはっとして背中を柱から起こす。それから、髪へと手を伸ばした。
 滑らかに指に馴染むそれを、一閃に引き抜く。結っていた髪がはらはらと肩に落ちた。つゆりは、手のなかの赤い簪を見つめて、これがあった、と胸のうちで呟いた。
 先端は漆塗りではあるがそれなりに鋭い。大量の出血は望めなくとも、一気に喉へ突き立てて、気道を潰してしまえばいい。必然的に、窒息死に陥るはずだ。
 震える手にもう片方の手を添えて細い簪を握りしめた。ここまで決断して、なおも恐れている自分に気づき、どうしようもなく情けなくなる。やはり自分は臆病者だ。
 喉もとに尖端をあてがう。焦りからか恐怖からか、つゆりの心臓はこれでもかというほどに大きく鼓動を刻んでいた。呼吸が浅くなる。喉が震える。
 目を閉じた。たったひと突きだ。どうせ、死んでいたはずの命だ。そう必死に自分自身に云い聴かせる。
 両の手に力をこめたその時、にわかに牢の外が騒がしくなった。一体、なにが起きたのか。つゆりは閉じていた瞼をふたたび開いた。
「火焔車あああああっ!!」
 雄叫びと、それから凄まじい物音。牢の格子が手の届く距離で砕け散った。その延長でがらがらと音をたて崩れていく壁に、つゆりは茫然とするしかなかった。
 その声も、一気に差し込んだ光も、向こう側に佇む影も、こころのどこかでずっと、ずっと待ち望んでいたものだったから。
「つゆり殿……!」
 幸村はつゆりを認めるなり、はっとしたように近くへ駆け寄った。力の抜けた手から滑り落ちる前に、かろうじて握られていたそれが奪われる。
「なにをっ、なにをお考えか!」
「……ゆ、ゆき、むら、さ、」
「某は、かようなことのためにこの簪を贈ったのではござらん!」
 怒っているのだ、とすぐには理解できなかった。幸村がつゆりを、こんな風に叱ったことなどいままでに一度だってなかったからだ。
 強く真剣な瞳でつゆりを見据えて、幸村はぐっと表情を歪めた。いまにも泣き出しそうなそれに、つゆりはひと言も声を発することができない。
「心配致しましたぞ」
「……ごめ、なさい」
「もう、間違うても自害など、考えないで下され」
 未だに震えるつゆりの手を、幸村の手がそっと包み込んだ。あたたかなそれに、ようやく触れたぬくもりに、つゆりは本当に胸の奥底から安堵する。
「しかし、遅くなってしまいすみませぬ。怖かったでござろう」
 やさしい声音だ。鼻の奥がつんと痛くなる。いままで感じたことのない痛みだった。
「つゆり殿がもう二度と、死など考えなくともよいよう、某が必ずお守り致そう」
「……幸村、さん」
「つゆり殿は、某のことをもっと頼って下され、信じて下され。約束にござる」
 重なる手にわずかに力がこめられた。幸村の瞳はまっすぐにつゆりを捉えていて、それが本当に彼のこころの底からのことばだというのがわかる。
 つゆりはゆっくりとうなずく。幸村を信じたかった。ずっと、信じていたかった。
「怪我は、ありませぬか」
「ない、です」
「なれば、ここを出ますぞ」
 幸村が座り込んだままのつゆりの手を引いて立ち上がる。もつれそうになる足をどうにか叱咤して立たせ、つゆりもそれに伴った。

 外へ逃れればすぐ、豪雨のなか対峙する元親と元就がつゆりの視界に入った。刃を交え、罵り合い、嫌悪の視線を互いに向ける。つゆりの、幸村と繋いだままの手に力が入った。それが、本気の殺し合いにしか見えなかったのだ。
「やはり、毛利殿はそう簡単に長曾我部殿との一時休戦を約束しては下さらぬか」
 幸村の表情が難しくなる。
 気づかれないようにそれを見上げたつゆりは、幸村にはいつものような柔らかな笑みが似合うと思った。見るひとを無条件に安心させるような、やさしい笑みが。
 土佐へ渡ってから、幸村は気難しい顔ばかりをしている。その原因につゆりが一切関わっていないかと云えば、答えは否だろう。むしろ、自分が隙を見せ毛利元就に捕らえられたことで、一層に肩の荷が増えたに違いないのだ。
 目の前で繰り広げられる死合いを見て、そう思わざるを得なかった。
「話を呑まねえってんなら、ここであんたを葬るまでよ!」
「フン、貴様ごときにこの我が敗れるわけがなかろう」
「どうだかな!」
 踏み込んだ足を軸にして、元親が大きな碇を凪ぐように振った。それを元就は身をくるりと翻して躱し、碇の鋭い刃を輪刀で弾く。戦いは依然として膠着状態だった。
「あ、あの、幸村さん」
「いかがいたした?」
「ふたりを、止めてもらえませんか」
「……なにを致すおつもりか?」
「少し、お話がしたい、です。お願いします」
 口を引き結んで、つゆりは幸村を仰ぎ見た。
「つゆり殿……」
 つゆりにしてはめずらしく意志のこもった瞳に、幸村は小さく、しかし力強くうなずいた。
「わかり申した。しかし、くれぐれも危険なことはせぬようお願い致す」
「……ありがとうございます」
 自分をどこまでも信じてくれる幸村に、つゆりは抱えきれないほどの感謝をことばにこめた。それとってに代わる表現など、少なくともつゆりには見つからなかったのだ。
 つゆりの手から幸村の手がするりと抜けた。それで初めて、自分がずっとその手を握っていたことに気づく。気恥ずかしさからわずかに俯くと、大きな手が一度、ぽんと頭に乗った。
 慌てて顔を上げる。幸村はつゆりの瞳を覗いて、再度やさしくうなずくと、片手にまとめていた二槍を両手に持ち変えた。それから、長曾我部殿! 毛利殿! とよく通る声で吼える。
「その死合い、ひと度某に預けられよ!」
 槍を凪ぎ払うように振ってふたりの間に割って入ると、幸村は左の槍では元親の碇を、右の槍では元就の輪刀を、受け止め抑えた。
「なにしやがる、真田!」
 元親が憤り叫んだ。元就も眉をひそめて幸村を睨む。
「申し訳ごさらん。しかし、このままでは一向に決まりが着きませぬ。もとより、某らは戦に来たのではござらぬのだ!」
 幸村がさらに声を張り上げた。
 つゆりははっと我に返る。幸村の、ふたりを止めに入る所作があまりに鮮やかで、呆気にとられていたのだ。ぼうっとしている場合ではない。急いで三人のもとへと駆け寄った。
「どちらにしても同じことよ。ことばで挑もうと刃で挑もうと、我は貴様らの要求を呑む気などない」
「わっ、私、毛利さんが長曾我部さんとの一時休戦を約束してくれるまで、ここを離れません……!」
 足を止め、つゆりははっきりとそう云い放った。
「なに……?」
 元就の鋭い瞳が、さらに細められる。臆してはいけない。自分が招いたとも云えるこの状況を、どうにかして打破しなければならない。
「私が、ここに居る限り、陽は昇りません」
「貴様……」
「お願いします。長曾我部さんとの、一時休戦を、約束して下さい」
「ならば、」
 元就が一度、その身を引いた。
「つゆり殿!」
 幸村の右槍を抜けた輪刀がつゆりに向けられる。
「貴様をここで殺すまでよ」
 研ぎ澄まされた大きな刃が、つゆりの顎下で底光りした。呼吸が止まる。少しでも気を抜いたら、膝がかくりと折れてしまいそうだった。
「させぬ!」
 金属の弾ける音。槍頭で輪刀の刃を捕らえ、幸村はそのままぐいと元就のほうへ体重をかけた。元就の足がザザ、と砂を削る。
「そのようなことは、某がさせぬ」
 元就は忌々しげに幸村とつゆりを見やると、輪刀を荒々しく引いた。つゆりは静かに息を吐き出した。まだ、手が、足が震えている。
「ご承知下さるか」
「……二度はあるまいぞ」
「かたじけのうござる」
「あ、ありがとうございます……」
 頭を下げるふたりに、元就は短く息をつくと踵を返す。元親が後ろで小さく、助かる、と呟いた。




結んだ契りから

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