夜明けが近い。雨の落ちる音が数刻前に比べて大きくなっていた。ざらついた音色の隙間からはころころと夏虫の唄う声が聴こえている。

 佐助は暗器の手入れを終えて少しの休息をとったのち、城内を見回っていた。なかなか寝付けないらしい主を頭の片隅に気にかけながらも、幸村の次にはつゆりの部屋へと足を運ぶ。
 しかし、目的の場所へと近づくにつれ、佐助は違和を感じずにはいられなかった。ひとの気配が、しないのだ。
 嫌な予感を募らせながらも、焦りを抑えて慎重につゆりに宛てられていたはずの客間へと降り立つ。肉眼でわざわざ確認せずともわかった。やはり、人ひとりいない。
「才蔵!」
 わかっていながらも、一縷の望みをかけてつゆりの警護に配置していた部下の名を呼んだ。半ば叫ぶようなそれに、当然ながら返事などは返ってこない。うかつだった、と佐助は舌打ちした。元親に頼んででも、もっと警護を厚くしておくべきだった。
 入った形跡のない綺麗な蒲団。開け放たれたままの障子。そして、微かに残る不自然な甘い香り。
 つゆりが自ら出掛けたのではないことは明らかだった。彼女がふらりと知らずのうちにどこかへ足を伸ばすことが多いのも否定はできないが、あまりにも奇妙すぎる。それに、部屋に漂う香りには嗅ぎ覚えがあった。おそらく眠り薬でも混ぜ込んだ香だろう。忍の確かな嗅覚が佐助にそう教える。
 とすれば、誰かがつゆりを連れ去ったということか?
 嫌な予感だけが胸中を渦巻いた。だとしたら、厄介だ。何せ、この自分が侵入者に気づけなかったのだから。
 また、あとを追おうにもつゆりの匂いは芳香に紛れてしまってすでに不確実であるし、才蔵がいないのも気になる。ひとり追跡しているのだろうと考えるのが普通だが、確認する術もない。
 才蔵が戻ってくることを信じて、佐助はまず主に報告だと足早に幸村の部屋へと戻った。

 日が昇りかけ、なかなか寝付けなかった幸村がようやくウトウトとし始めた頃、勢いよく襖が開いた。
「旦那! 起きて!」
 なんの前触れもなく耳へと飛び込んできた大音声に、幸村はほとんど反射的に身を起こした。同時にやっと降りてきた睡魔も消え失せる。
「な、なにかあったのか、佐助……」
 いつになく焦っている佐助に、幸村は驚きを乗せた声で訊ねた。
「つゆりちゃんが居ないんだ」
「な……」
「いつから居なくなっていたのかはわからないけど、とにかく、ただ事ではないってことは確かだと思う」
「それは、攫われたと、いうことか?」
「おそらく、ね」
 状況を呑み込んだ幸村は背中に薄暗いなにかが走るのを感じた。無意識に拳をきつく握りしめる。ばくばくといやに大きな音を立てる心臓を押さえ込むよう歯を噛みしめれば、きりり、と悔恨の音がその隙間から漏れた。
 自分は一体、なにをしているというのだ。彼女を守るとこころに決めたはずではないか。それなのに、いつまでも斯様な悩みに囚われて。
 自分がつゆりにどう思われたかなどということよりも、もっと大切なことがある。悔やまずにはいられなかった。しかし、いまはその時間すら惜しいと、ひとつ呼吸を置いて幸村は立ち上がった。
「探しに参るぞ佐助!」
「待って旦那、落ち着いて! いま、才蔵が、」
「待ってなど、落ち着いてなどいられるか! つゆり殿の身になにかあってからでは遅いのだぞ!」
 ほとんど叫びながら寝衣を脱ぎ捨て、性急に赤い戦装束へ着替えると、幸村は有無も云わせず部屋を飛び出した。が、廊下の角を曲がってすぐその足に急停止がかかった。危うく何者かとぶつかりそうになったのだ。寝癖が跳ねたままの幸村を追う佐助の足も止まった。
 頭ひとつ分ほど上から幸村を見下ろすのは他でもない、この城の主である長曾我部元親だった。驚いた様子の元親に、すみませぬ、と幸村は慌てて謝る。
「朝っぱらからなに騒いでんだ?」
「その、つゆり殿がいらっしゃらぬのだ」
「なに……? 一体いつから、」
「たぶん、日が昇る前にはもう。蒲団に入った形跡もないしね」
 幸村の代わりに低い声で答えた佐助に、元親はわずかに瞠目した。昨夜、つゆりは自分と話をしてから床に入ったはずではなかったか。蒲団にさえ入らなかったということは、万が一連れ去られたのだとすれば別れてからすぐに違いなかった。そうでなかったとしても、
「……これは、城主である俺の責任でもある」
 侵入者を赦してしまったのはこの俺だ、と元親が絞り出すような声で云った。
「長曾我部殿、」
「野郎共を集めてくる。あんたらは先に行きな」
「か、かたじけのうござる……!」
 促す元親に一礼すると、幸村は駆け出した。
「旦那! 俺様は他の忍たちに声かけてくるから!」
「うむ、頼んだ!」
 振り返ることなく叫んだ赤い背中を見送って、佐助も走り出す。とにかく、行方の目星がつかないのならば捜索網を広く張り巡らす他ないのだ。

 幸村たちが動きだす半刻ほど前に、つゆりは目を覚ましていた。けれど、窓のないこの部屋からは外の様子は一切うかがえず、もう陽が昇ったのか、まだ月が出ている頃なのか、それすらもわからないままだ。
 事実、つゆりは二刻も眠ってはいないのだが、睡眠香のせいなのか何十時間も寝ていたような気がしていた。夢は見なかった。ただ、瞼を開いたいまも暗闇だけが深く佇んでいる。
 頭は霞がかかったようにぼんやりとしていて、思考能力はうまく働いてくれない。なにをするでもなく、しかし瞳だけはしっかりと開いて木柱に身を預けているのみだ。
 しばらくして下女が朝餉を運んできたが、つゆりは手をつけなかった。とても、なにかを口にできる気分ではないのだ。胃に落とした瞬間、戻してしまう気がした。
「貴様の駒が動き始めたぞ」
 そんな声が、開錠の音とともに入ってきた。カシャリ、と甲冑のぶつかる音が不安を煽るように重なる。つゆりは顔も上げなければ、ことばも返さない。いや、返せなかった。
「食わぬのか」
 運ばれたときのままの状態で放置されている朝餉を一瞥して、毛利元就は呟く。
「まあ、よい。飢えて死ぬるのは貴様だ」
 感情の見えない声はつゆりのこころを荒立てるように続けた。
「しかし、助けなどは期待せぬがよかろう」
「……」
「先ほど、風魔が武田の忍を見つけたようだが、今ごろは息の根もないであろうからな」
 その科白に、初めてつゆりは瞳を上げた。武田の忍、と云われただけでは、佐助か、はたまた別の忍かはわからないが、ともかく誰かがここまで来て救い出そうとしてくれたということだ。
 そのひとが、今ごろは。
「やっ、やめて、やめて、下さい……っ」
「何を今さら」
「わ、私がっ、私を、」
「貴様を、殺せと? 笑わせるでないわ。云うたであろう、貴様は利用価値があると。あとを付けてきた下衆な忍よりも、よほどに、な」
 忌々しげに細められた瞳に、つゆりは喉元を絞め上げられるような感覚を覚えた。
「それに、面倒なことに、生け捕りにせねばならぬ理由がある」
 きりきりと、痛む。呼吸が、ままならなくなる。苦しい。
「こちらの用が済めば、貴様は物好きに手渡す手筈になっておるゆえ」
 元就のことばは、もうつゆりの耳に入ってはこなかった。

 自分さえいなければ。
 そればかりがつゆりの頭を占拠する。
 自分さえ、いなければ。
 そう思うたび胸が張り裂けそうなほどに痛んだ。どれだけ足掻いても、変わろうと思っても、結局いつだって大切なひとたちを傷つける。自分が傷つくだけだったなら、どんなによかっただろう。
 ひとりのほうがいいのだ。
 思い出す。孤独を、自ら望んできたはずのそれを。けれど、ここへ来てからいつの間にか絆されて、居心地よく感じてしまっていた。彼らが、あまりにも無条件に、そして自然に、やさしい居場所をつくってくれていたから。
 ならば、その居場所を壊すのも、自分自身だ。




とらわれる呼吸

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